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「確信犯」たちの「開発動機」

2005年 9月23日
記事ID d50923

ベートーベン「運命は扉をたたく。テンペストを読め」

→ 検察: むしゃくしゃして作曲した。 ゲリラの進軍マーチなど、 国際法違反の戦闘行為、テロ活動等に利用される可能性があることを知りながら開発を続け、 譜面を100回以上も書き直すなど、犯行は執拗で計画的。

ドビュッシー「詩のイメージが美しかったので霊感がひらめきプレリュードを書いた」

→ 検察: 既存の和声学を破壊する意思で確信犯的に平行5度を書くなど、悪意から、 原作者に無断で著作物の翻案・公開を行い、 もって印象派をまん延させモーツァルトの売り上げに回復不可能な損害を与えたものである。

ストラビンスキー「ファゴット奏者を苦しめてやろうとしてやった。苦しそうな音なら何でも良かった。今は、もう半オクターブ上でも良かったかなと(反省している)」

→ 検察: 少女をいけにえにする残虐な妄想に駆られた異常性格者であり、全然反省していない。

バルトーク「巻き貝がフィボナッチ数列だからやった」

→ 検察: 公序良俗に反する異常な和音や拍子をまん延させ、質問にも真面目に答えない。

ジョン・ケージ「…」

→ 検察: 黙秘権の乱用。器物破損。

シェーンベルク「現代の音楽がめちゃくちゃなので、とりあえず規則を作ってみた」

→ 検察: 反社会的性格から、確信犯的に調性制度の破壊を企て、誰でも容易に無調が実現できる違法ツールを開発、 シリアルを配布した。

更新履歴

  1. 2005年1月6日: 初版。この頃話題になっていたWinny事件では、「236回更新されたのでWinnyは悪い」といった不可解な主張があった。それをネタにしたもの。(警察・検察が考えたストーリーは結局認められず、その後2011年に無罪が確定している。)
  2. 2014年8月24日: ストラビンスキーのオチ「ファゴット奏者のスキルが上がってしまって残念だ」→「今は、もう半オクターブ上でも良かったかなと(反省している)」

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「無断コピー以外」を禁止するライセンス

2005年 1月 6日
記事ID d50106

人を引きつけるだけでは情報は生きない。 「ぬるさ」とは何か、なぜそれが自滅を招くのかを明確にする。

人気がある情報ほど滅びやすい現実

公開した人がコストを払うというWebの仕組みに問題がある。公開しない方がコストが安い、さらに、人気が無い方が有利というのは、本質的におかしいだろう。

脱中心ウェブ AsagumoWeb の開発者はそう書いている。

参照の多い情報はサーバ負荷により危機に陥る。

トラフィックが増えることの問題はそれだけではない。 つまらない一言が「名誉毀損」「営業妨害」とされたり、 たった一枚の写真をめぐってアカウントごと削除されたり、 まったく同じ情報を送信していても、辺境のページでやればまるで問題にならないことが、 トラフィックの多いページでは致命的な問題になりやすい。

「ぬるさ」とは何か なぜそれが自滅を招くのか

吸うだけのリーチャ。 BTの普及で、クリックすれば何でも落とせると思うリーチャがわらわらと増えた。 リーチャは受益者だが、大部分のリスクを負うのはリーチャではない。 ウェブ全体のトラフィックの何十パーセントとかいうのは普及しすぎで、 「迷惑」でさえある。システム全体が滅べばリーチャ自身も存在できないのに、 そこがリーチャの浅はかさ、宿主を病死させて自分も連鎖死亡する寄生虫のようだ。

別の言葉で言うとヌルさの増加で、実は結果的に多くの受け手(それはライト層自身も含めて)にとってデメリットが生じ始めている「今、そこにあるオタクの危機」 第6回)。 コミケにおいてもこの「パロディ同人誌」と「版権」の問題は幾度と無く取り上げられているわけで、「黙認はされているが、オールグリーンな訳ではない」。常に危険と背中合わせな状態が続いているだけなんですが、この辺に対する認識がものすごく低い。

ぬるいうちはまだ良い。冷え切ってはいないから。 けれど何もしないリーチャが多いなかで、全体のぬるさを保つために、どこかが極めて高温度になる。 かつてのスーパーノバが象徴的な一例だ。 そのどこかが崩壊すると、全体が無に帰する。

ぬるさを許容するということは、すべての卵をひとつのバスケットに入れるようなものだ。 そのバスケットを地面に落とすと、すべての卵が一瞬で崩壊する。 ぬるさの本質も「一極集中の弊害」であり、問題は全体の平均的ぬるさそのものではない。

リーチャの多くは、たぶん創造的なことはあまりせず、受信者に徹しているのだろう。 しかし受信に徹するばかりで、中から技術がある後継者が出ないと、そもそも送信するものがなくなってしまう。 商業化に成功しても「受信させて金をとれればいい」というだけだと、その産業そのものの存続にもかかわる。

権利吸い上げ型産業は、吸い上げる場所の後継者を育てなければならない。 さもないと権利吸い上げ型産業も、自分の首を絞めるリーチャになりかねない。

高層ビルを建てる場合、優秀な技術者や現場監督 — ここまでは手を抜いても何とかなるなどと判断できる者 — が中間にいて、 安い賃金で働く労働者が下層にいて、成り立つわけだが、 ビルを建てるぞと決定して建つ前から賃貸権がいくらで売れるかなど計算している上層のほうは、謎のベールに包まれている。 漫画やアニメでは誰が中間で、誰が下層で、誰が上層だろうか。必ずしも企業批判ではない。 企業を営利的に動機づけて製作を行わせる「視聴者」こそ最上層かもしれない。

注意: 「ぬるさ」というと「冷たい」から「熱い」に至る一次元量のイメージがあるが、 実際には「ぬるさ」は二次元量でモデル化するべきだ。この問題は末尾の「付録」で扱う。

人を引きつけるだけでは情報は生きない

情報それ自身の力が吸引的に働くと「中心」を発生させ、バランスの偏りを招く。 優れた情報が、
人間を引きつけ間接参照させる「求心力」で終わらず、
その人間を触媒として、実体をコピーさせる「拡散力」を持つような、

実装が望ましい。
「優れた情報」ほど冗長的に保持されるべきだ。 そのサーバが消えるだけでウェブ全体から情報が失われるような脆弱特異点に貴重な情報を置く実装は好ましくない。

素晴らしい情報は往々新しい知見を含んでおり、 新しい知見は従来の常識を否定するがゆえに、 予期せぬ各方面からの攻撃にさらされやすい。

現在でも感染力の高いミームは拡散するが、
ウェブページが単にポイントされるのでなく実体がコピーされるなら、
ミームの動き方が作者中心から作品中心に変わる、

という違いがある。

どこにアップしてもたった3年後の安心感も持てないのが現状だろう。 自前のサーバだって地震や津波ですぐ潰れる。

実体のコピーを行う方がミームの保存に有利であることが明らかでありながら、 参照にとどまる理由は何か。 権利が作品にではなく人間に従属していた古い制度が、制度的障害になっている。 リンクによってポイントはできるが、 作者に許可をとらないと実体をコピーできない、という古い信仰の下では、 情報を評価し肯定することから、リンクが生じて、情報の生存が脅かされる。 高く評価することが相手に迷惑なのだ。

このような実装は不自然で、直観的にも不合理だ。

だが、優れた情報は無視したほうがその情報のためになる、参照すると失われる、などという変なことが本当にあるのか。

この現象は多くのかたが一度や二度は経験しているはずだ。 巨大なトラフィックの原因となる場所から直接リンクしたせいで、せっかくの情報が消滅してしまうことが実際によくある。

「無断コピー以外」を禁止するライセンス

そうなるのは「リンクが本質的に悪い」のではなく、もっとさかのぼって、人間がコピーに対して心理的抵抗を感じるシステムに問題がある。 けれども、それに対してアナーキーな破壊的行動をとるのではなく、従来のシステムの中では、作者側から次の3ステップを踏むのが望ましい。

  1. まず転載を明示的に「許可」する。 実際には、作者が「許可」「不許可」を論じるような、 作品に対する作者の上位性自体を認めるべきではないが、まずは人間のロジックで「許可」する。
  2. 次に「このページは都合でもうすぐ閉鎖させていただきます」などと宣言して、実体をコピーしない限り失われることを強調する。
  3. さらに、意識して、わざと、リンクが張りにくい予測不可能で、めちゃくちゃなメモの書き方をして、ポイント自体を難しくする。 (これは実験的に行う。)

それほどまでに人間は転載に対してひどい罪悪感をすりこまれており、かれらは明示的に許されている行為をするのにさえ意識的努力を必要としている。

この罪悪感は一部既得権者の権益保全には役立つが、 ウェブページを含む情報一般においてはネガティブに作用する。 既に見たように、実体をコピーせずに参照で済ませる結果を招き、潜在的に参照先にリスクを集中させる。

結局、心理という不安定要因を持ち動作が一定しない人間など初めから信頼せず、 情報を利用すると自動的・機械的に実体がキャッシュされ拡散するように、システム全体をそういう設計にすることが望ましい。 もっとも、そのような新しいシステムはそれ特有の新しい問題を生じるだろう。

人間の心理的困難があまりに大きいようなので、 それに対抗するために、次のような新しいライセンス形態を思いつくほどだ。 いわく、「この作品は、無断でのみ、コピーを許可します。許可を求めた場合には常に不許可にします。したがって、 この作品をコピーする唯一の合法的手段は、無断コピーです。それ以外の仕方でコピーすることはライセンスの侵害になります」

付録

付録A: ぬるさというより薄灰色

情報を消費して楽しむのもいいが、たまには一次的な源になるのも大切だ。 「fooという技術はどうですか」と何で第三者に聞くのだろう。 疑問に思ったなら自分で試してfooテストレポートを公開すればいいではないか。

そして、そのとき重要なのは最初にやるヤツは間違っていてもいいということだ。 間違っているかどうか判断できるだけの知識があれば、最初から訂正している。 「目」は「これは見間違いだろう」などと自分で考えなくていい。 見えたイメージを視神経に流しておけばたくさんだ。 あとは「脳」にまかせればいい。 頭のいい人は「判断作業」に忙しいので、いろいろ新しいものを見て回る暇がないのだから、 われわれバカが適当に仮説を書いておけばうまく役割が分散される。 バカはバカに徹し、知識屋はバカの書いた情報の二次的批判や補足に徹すればいい。

バカはバカなことしかできないし、知識屋はバカなことができない。 それでいい。

「ぬるい」というより、「薄い灰色」だ。 「すべてが熱くなれ」という趣旨ではないから。 「もっと赤は赤っぽく、緑は緑っぽく、青は青っぽく、とことん徹しろ」という趣旨だから。 「あるひとつの色だけが正しく、それ以外は間違っている」という一次元の尺度をこのミームの生態系に持ち込むな、 ということだから。

付録B: 均質化としての「ぬるさ」

利用者ではなく情報の発信側ばかりに責任が偏ると、ひいては法務部を持つような大企業しか情報を発信できなくなり、 インターネット以前の大味のつまらない時代に(トポロジーを変えただけで)逆戻りしてしまう。

Winny技術の研究開発と実装を行った東京大学の先生にすぐたくさんの支援カンパが集まったのも、バランスが崩れていることを無意識にせよ感じてではないか。 「自分たちだけ楽しんで、苦労してその場を作ってくれた開発者がリスクを負うのでは申し訳ない」 という感覚があったからではないか。

ある意味、自分が Winny を使わなかった理由もそうなのかもしれない。 情報を作るのに急がしすぎ、ダウンロードできても、ゲームをやったり映画を見る時間がない。 情報を出せば出すほど、知らず知らずのうちに、吸い取られる下層の立場になってしまう。 例えば「作る」研究をしているのに、「受け手」側の、初心者の、ぬるい質問が来る。 情報は情報があるところに集まるので、その処理に追われ、 最終的には「その技術を詳しく紹介していながら、実際には、その技術を実用的に活用している暇がない」という変な状態になる。

ぬるい読者はブックマークを開けば、いつでもそこに新しい情報が書いてあると、それを当然のことだと思っている。 「あ、まだ更新されてない。速く更新しろよ」などと勝手なことさえ思う。 けれどこんなものはいつ終わっても不思議ではない。 ひとつを消費しつくしたら、また別のものを見つければいい、というのもあるだろうが、 もしそういうことが続くと、最終的には、クレイジーなサイトが減って、ウェブ全体がなまぬるい均質の倦怠に陥る。

実際には変わり者は常に一定割合で新規出現するのでそうならないが、均質化傾向は感じられる。 毎日、巡回先からピックアップした「今日のリンク集」を作って短い感想を書いてるだけの、 ミーム的に参照による「中継だけ」のページの割合が増えている。そういうページにも価値があるし、 この欄にもしばしば「中継だけ」のリンクを張るが、 「それだけ」のページばかりになったらつまらない。

「ぬるさ」の本質について、 「中心的存在の発生とそこへのポテンシャルの過度の集中だ」と指摘した。 しかし、単なる均質化も「ぬるさ」に通じる。

演習: ある種の分布の偏りが「ぬるさ」の本質である、という指摘と、分布の偏りをなくす「均質化」も「ぬるさ」である、という主張は、 外形的に不整合である。「色モデル」を使って、この問題はどう説明できるか。 「ぬるさ」を一次元量でなく「色相」と「色の濃さ」の二次元でモデル化せよ。

付録C: 日本の不戦敗

NECも脱中心のプラットフォーム開発に本腰を入れるようだ。 2005年は日本もP2Pで巻き返しを図る年になるのかもしれない。

上記NECのプレスリリースでも、一部のヘビーユーザが実験的にやってきたことが技術を切り開いてきたと指摘しているが、 しかし、
①Winny事件が終わる、
②判決の中で幇助の構成要件をあいまいさのない表現で示す、
の二つが満たされない限り、あまり実験的なこともできず、自己防衛・自粛ムードが続くだろう。 ITの世界で1年の足踏みはかなり大きい。 数年となると、世界市場ばかりか日本国内市場も事実上放棄することになる。

ユーザが勝手にやることで、何をやったら幇助と言われるのか。 メッセンジャーひとつあれば、どんなファイルでも(必要なら分割したりASCIIにエンコードして)どこへでも送れる。 そういう行為に使われていることを「認識しつつバージョンアップ」とか言われても、 そんなもの開発者がエンドユーザ以上に技術の可能性を多方面にわたって認識していることは当たり前。 絶対に変な使い方ができない道具を作れ、というほうが難しい。

そういう意味でも公開した人がコストを払うというWebの仕組みに問題があるというのは真理だ。 ソフトや情報を公開した人がリスクを負うのではなくて、使う人がそれぞれの使い方に対してリスクを負ってほしい。

事件の真相は謎だが、誰かがウィルスに感染して内部資料が漏れたという個人的な失敗を組織ぐるみでフォローするために、 日本の進歩にブレーキをかけたのだとしたら、偶発とはいえ国全体にとってアンラッキーだ。 脱中心・分散は現在のウェブのかかえる根本命題で、 今後、多品目の巨大ファイルを長期に渡って流通させる必要があるだろう。 この巨大な新市場、 音楽・映画配信の分野で日本は「手段」を開発できない。 まだテレビのないテレビというものを誰も知らない世界を考えてみる。 そこで日本は世界初のテレビ放送システムを作って、世界から尊敬・感謝されながら、経済的にもうるおう技術力があるのに、それができない。 「テレビ局が違法番組の放送に使う可能性があるから」という変な理由で。 土地も物理的資源も乏しいが技術力はある日本にとって、仮想空間の開拓で世界をリードできるなら、とてもいい話だ。

インターネットでは国境を越えて情報が流通するのが当たり前だ。 もし仮に日本語圏のみターゲットにしても、海外在住者が「金を払って買いたいのに買えない」としたら、 ビジネスの根本が間違っている。売るコストは同じなのに、買いたい人に買わせないのはおかしい。 つまりノードは世界に分散する。けれど、P2PクライアントやDRMを販売元ごとに何万種類も使い分けるのはあまりに不便だから、 少数の新技術が世界全体の標準になるはずだ。日本はこの巨大市場で大事な時期に不戦敗になろうとしている。

もっと高レベルの意志で、初心者にまでこんなものが普及するのは良くない、という判断で司法当局が動いたのなら、 まだ理解できる。放置すると、別の意味で、短期的に日本経済に悪影響を及ぼしかねないからだ。

何だか分からないベータがリークするととりあえず入手してみる、起動してみる、そういうある意味クレイジーなほど好奇心旺盛なヘビーユーザがいて、 やがて誰もが安心して歩ける広い道ができるのだろうが、実験的に始めたことがあまりに大衆化すると、その段階で、 また別の問題が出る。実験は実験、危険なもので、むやみに大勢参加すると意味も変わってしまう。

付録D: 外側に向かう力と、内側に向かう力

「無断コピー以外」を禁止する、ということは、究極的には「リンク禁止」「全文転載はかまわない」ということだ。 価値ある情報と思ったら、リンクしないでそちらでどこかにキャッシュしてくれ、ということ。 なぜその方がいいのかは既に述べた。 これは通常の常識と逆になる、という意味でもそれなりにおもしろいが(通常の常識ではリンクは自由にしていいが、 転載はいけないと教えられていた)、それよりもっと重要なのは「作者中心から情報中心への転回」という反転の構造だ。

それをベクトル的な言葉で言うと「一極集中・求心」から「分散・拡散」への転回でもある。 情報の発信とか芸術の創造が「エクスプレス」「外に絞り出す」ことであるという基本的な枠組みを見ても、 「分散・拡散」こそが自然な力の方向だ。ウェブで言えば、リンクよりコピー(キャッシュ)が正しい。

「一極集中・求心」は創造自体のベクトルではなく、創造に対する対価・報酬・お金・名誉などの流れのベクトルであり、 したがって、権益を保護する著作権システムと親和性が高い。著作権は独占権であり、独占は一極集中だ。 それはまた、作品が絶版になりやすい現実とも重なる。権利者、例えば出版社という脆弱特異点が発生するため、そこが出版をやめると、 たちまち品薄になり、数年後には入手困難になってしまう。独占は、純粋な意味での情報の生存に対しては、ネガティブに作用する。 ただし、独占は、もちろん経済的な原理によって正当化されるか、少なくとも、歴史的には正当な理由がある。

表現は本来外に向かうもので、外から作者に向かう逆方向の流れは、むしろ副次的なものと考えられる。 求心的な力は、最大でも外へ向かう力と「対等」の大きさであるべきで、脱中心系における匿名的発信の場合では作者に向かう力はゼロになりうる。 両方向の力の関係、という視点から、いろいろなシステムを見つめ直すこともおもしろいかもしれない。

「無断コピー以外」を禁止する、ということは、転載について許可を求めたり報告することさえ否定する態度だ。 そのような極端な態度が正しいのだろうか。

これは倫理的・論理的・法的などに正しい・正しくない、という問題ではなく、 抽象的なモデルにすぎない。

しかし、もし報告義務があったり、許可を得る義務があるなら、有用な発信を行う者のところには「報告」「問い合わせ」が殺到する。 特に後者の場合、情報を広めるのにいちいち「承諾」の返信が必要になる。 リンクの場合同様、有益な発信をすればするほど、発信それ自体と無関係な事務に追われたり、負荷がかかって、不利になる。 「無断コピー以外」を禁止するという態度を、抽象的に言い換えると、 純粋に外への表現に徹し、その表現について、自分に向かってくる本質的に無意味なベクトルをすべて止めようという姿勢だ。

繰り返すが、これは単なる抽象モデルにすぎず、今ある大企業がこのように変化すべきだといった非現実な主張をしているわけではない。 ただ、このモデルを使うことによって、いくつかの複雑に見えた問題が透明に見渡せ、 思考の節約とより深い洞察が可能になるものと信じる。

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「無断コピー以外」を禁止するライセンス: 実例研究

2005年 1月20日
記事ID d50120

Celtic_Druid のサイトを便利に利用していたユーザは多いはずだ。 Media Player Classic (MPC) と ffdshow の他にも、実に多くのバイナリーを公開してきた。 先日紹介した Dirac も、Celtic_Druid がビルドしたエンコーダを使って作成したものだ。 もちろんオープンソースなのだから理論上は各自がビルドしてもいいのだが、 同じバイナリの方がバグだしなどの情報交換に都合がいいし、 そもそも全員がコンパイラを持っているわけでもないのだから、 Celtic_Druid や Koepi のようなかたの存在の大きさについては多言を要さないだろう。

今、Celtic_Druid のページでは、帯域の関係で、公開を制限しなければならなくなった。 ちょうど「「無断コピー以外」を禁止するライセンス」で触れた問題だ。 便利で有用なサイトであればあるほど、かえって公開中止になりやすい。

現在、配布元ページで公開が停止されても、依然これらのファイルが入手できるのは、 「「無断コピー以外」を禁止するライセンス」の理屈どおり、 リンクするのでなく実体をコピーしておいたからに他ならない。 別にそこまで予想してミラーを立てたわけではないだろうが、 結果的には上記記事のように今は「リンクはしない。実体のコピーだけを行う」状態になっている。

付録Dの「リンク禁止。無断コピーのみ許可」についての説明をみて「それはいくら何でも非現実な極論だ」と思ったかたは、 今のこの現実を直視してほしい。 Celtic_Druid 自身がそれを希望している。リンクされると帯域と負荷の点で迷惑なのだ。 再配布は構わないが、リンクはしないでほしいと。もちろん無断コピー以外あり得ない。 ビルドのたびにメール等でいちいち許可を求めて返信を強要するのは誰のトクにならないし、 GPLソフトなのだからそもそも本人にも「許可を与えたり不許可にしたりする権利」がない。

「無断コピー」というといかにも響きが悪いが、 「無断」というのは情報を広めるのに人間を介在させない、という意味であり、逆説的だが、情報自身を尊重する態度だ。 もちろん、この点をめぐって熾烈なイデオロギーの対立があり、微妙な多くの論点があることは事実だが、 少なくともいくつかケースでは「無断コピーのみが正しい」ということが現実的、倫理的にあり得る。 これはそういう事例なのだ。 この例ではGPLなので、ライセンス的、法的にもそれで正しい。

ミラーがあって良かった、ではなく、ミラーのリスクが高まった、という点にも注意してほしい。 もっと多くのミラー、ミラーのミラーがないと…。 ちなみに、ミラーのミラーの…と必要性に比例して自動的にキャッシュするしくみこそ、現在の脱中心型P2Pアーキテクチャの一つの目標であり、 まさに今のインターネットが最も切実に必要としている技術でもあるだろう。

オープンソースなのだから、ミラーが潰れようが何だろうが、最終的な入手可能性は同じだと思うかもしれないが、 それは「転送量オーバーでアカウントを削除されて金を損するばか者」に一方的にリスクを集中させる考え方だ。 コンパイラを持っていてボランティアでビルドしてくれる人、 良いものを広めたいという善意で技術を紹介したりミラーしたりする場所、そういうプラス方向のノードに、 リーチャのためのリスクを集中させる構造は、どう考えてもおかしい。 不労所得を得ているリーチャが潤い、その潤いの源泉が正直者に転嫁されるのでは本末転倒だし、 しまいには正直者がいなくなってリーチャ自身も自滅する。

ついでに言えば、「デジタルコピーは劣化に強く、一度ネットに出れば」などというのは超短期的なたわごとにすぎない。 HDは10年もたないだろう。市販のCDも国会図書館などでは20~30年を寿命の目安としている。定期的・システム的に実体を物理的メディアレベルでコピーしない限り、 われわれのデジタル文化は容易に失われてしまう。コピーをブロックするCCCDのような技術は、もしそれが本当に完璧に機能するなら、 わずか四半世紀で完了する文化的自殺を意味する。この建物は10年後に倒壊する、と分かっているのに、中のものを閉じこめて外に出さないようなものだからだ。

「iPod でしか再生できない」といったDRM保護もまた、 何らかの理由で iPod が存在しなくなった場合に、一瞬にしてすべてガラクタの山になってしまう危ういものだ。 本当の意味で文化を守るとはどういうことなのか。 デジタル時代は単なるアナログ時代の延長ではないいくつもの機微を秘めている。

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