自分の真実に従う,ということを強調すると,「それでは自己中心的なのではないか」「自分ひとりのことよりも,みんなのことを基準に考えて何かをするのがより良い選択ではないか」と考える人もあるでしょう。
その気持ちがあなたの真実なら,それがあなたの真実なのです。あなたの真実に従ってください。
あなたは「自分のことではなく,みんなのことを考えよう。そのためにはAではなくBを選ぶべきだ」と考えることがあるかも知れません。その場合,それがあなたにとっての真実だから,あなたはBを選ぶのです。心に照らして「Bが正しい選択だ」と思われるから,あなたはBを選ぶのです。これは善いことです。あなたの中の真実にもとづいているからです。
しかし,あなたがつねに「みんな」のことを先に考えるとすれば,あなたは道を踏み外しています。自分の中の真実によらず,“みんなのためになること”という漠然とした社会通念に盲従しているからです。
実際問題として,あなたが「こうすればみんなのためになる」と考えたとしても,それはあなたが勝手にそう判断しているに過ぎません。たとえ世界中の人の意見を聞いたところで,ある行為が本当の意味でみんなのためになるかどうかは誰にも分かりません。
もし現在の社会に悪い部分があるとすれば,あなたが善意でした“社会の役に立つこと”は,部分的にはその悪い部分に貢献しているのかも知れません。例えば,ある種の書物やテレビ番組を作る人は,確かにみんなに喜ばれ,企業に利益をもたらし,社会の役に立っているのですが,それはあるいはみんなの魂を堕落させる結果になっているのかも知れないのです。
そうなっているかも知れないし,なっていないかも知れない。「みんなの魂」の動静など,人間には予測不可能です。娯楽による息抜きがちゃんとした仕事の能率を高めるのに役立つかも知れませんし,低俗な書物の中の何気ないせりふが,はからずも芸術家に霊感のひらめきを与え,優れた芸術作品を生み出す引き金になるかも知れません。
いずれにせよ,それぞれの人間は,その場その場で自分がいちばんいいと思うことを実行するしかありません。それが人間にできる最上のことなのです。
その結果として,そうなることになっているのなら,あなたは自分でも知らないうちに意外な人の役に立っているものです。その時点において。あるいは予期せぬ未来において。でも,そうなるかならないかは,あなたの気にする問題ではありません。あなたにはコントロールできない部分なのです。
心に照らして判断した結果,いわゆる“社会の役に立つ”ことをしたくなるときもあるでしょうし,“個人主義的な”ことをしたくなるときもあるでしょう。それはどちらでも良いことです。また,その分類自体,絶対的なものではありません。
「世の中の役に立っていない人間は生きる価値がない」というのは二重の誤りです。あなたには「ある人の存在が世の中の役に立っているかどうか」といった高度な判断をする能力はありません。また,そもそも,人生の意味と社会貢献とはまったく別問題です。
寝たきりの病人は,もう生きていてはいけないのですか? 山奥でひとり自給自足の生活を送っている人の人生は無価値なのですか?
ユーラ,あなたは“社会”によりかかって人生の意味を規定しようとしてはいけません。「私は社会の一員として,会社に勤め,家庭を持ってりっぱに生活している。だから私の人生には意味がある」というのは,自己欺瞞です。
人生の意味を考える場合には,社会であれ何であれ,自分以外のものによりかかってはいけません。〈私はXのために何ができるか? → 私はXの役に立っている。だから私の人生には意味がある〉という方向から考えてはいけないのです。
そうではなしに,〈私の真実は何か? いま何をするのが正しいか?〉とあなた自身に問いなさい。あなたの外にあるものではなく,あなたの中にあるものに従うのです。〈私は真実に生きている。ゆえに私の人生は真実である〉と観じなさい。あなたの魂によってあなたの魂を測るのです。
死を待つだけの寝たきりの病人のことを考えてごらんなさい。その人はもう社会の役に立つことはないから生きていてはいけないのですか?
いいえ,ユーラ。たとえベッドの上で死を待つだけだとしても,その人はひとりで自分の人生に立ち向かわなければいけないのです。
体が健康だとなかなかこの《孤独》に気づくことができません。立って,動いて,働いていると,なんとなく「ちゃんと生きている」ような気がするからです。実際には意味もなくぐるぐる回っているだけかも知れないのですが……。
人間はみな,ただ死を待つだけの病人のようなものです。人生の意味を測るときには,《自分自身》のほかによりかかれるものはないのです。
ロビンソン・クルーソーは,無人島で,あらゆる苦しみにたえながら,“誰の役にも立たず”ひとりで生き続けました。その結果,彼は,28年めに,その同じ島に漂着した別の人の命を救うのです。もし彼が「自分の生はまったく無意味だ」と判断して生きるのを中止していたなら,このことは起こらなかったでしょう。そして,このふたりが互いに助けあうことによって,初めて島からの脱出が可能になるのです。この寓話の意味をよく考えてごらんなさい。
もし万が一,いままでのあなたの人生にまったく意味がなかったとしても,あなたは28歳のときこの世の中で決定的な役割を果たすことになっているのかも知れません。あるいは56歳のときに。
そして,実際には,あなたの人生にはいつでも深い意味があるのです。
考えてもごらんなさい。芸術家が上の世界から霊感を得て崇高な作品を生み出すのだとしたら,裸の美である光の光はどんなに美しいものでしょう。それほど完璧な芸術作品,すべての芸術作品のみなもとに,どうして無駄な部分があるでしょう。《彼》にはひとつとして無駄なタッチなどないのです。
あなたはナスカの地上絵です。絵の中の小石です。あなたがあなたの平面において世を見回すと,自分が無意味にそこに転がっているように思うでしょう。
でも,神様からごらんになると,あなたは壮大なピクチャーの一部なんですよ。
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