妖精の国からのお知らせ

§4 正しさを妨げる高度な問題

多くの人は,何らかの見返りを期待して善行をします。人に見てもらおうとして。「りっぱな人だ」と思われたくて。あるいは物質的利益を期待して。

このようにして善をなす人はもちろん本当の善人とは言えません。偽善者です。

一方,「人に見てもらうために善をなすのは偽善だから」といって,誰にも知られないように,こっそりと善を行う人もいます。「そうすれば隠れたことを見ておられる私たちの父がむくいてくださる」というわけです。「自分のために富をせっせと天に積みましょう」というわけです。「人目につかないように功徳を積んでおけば,死後に有利なはからいを受ける。天国に行ける。キヒヒヒヒ」というわけです。これぞ偽善中の偽善,濁りに濁った先行投資というべきでしょう。

さらにまた,ある人々は,自己満足のために善を行います。匿名で募金に協力し,「私はいいことをした。私は偉い」といい気分になるのです。

こうした偽善性をすべて見抜いている潔癖な人は,往々にして善を行いたくても行えないという自縄自縛状態に陥ります。

善行はやすし。善人であること,さても,まことに,成ること難し。

ではどうすればいいのでしょう?

このややこしい状況を切り抜けるには,べつに複雑な悟りなど必要ありません。正しい道はすでにお知らせした通りです。つまり,あなたの心があなたに命じることは,偽善であろうがなかろうが,あくまで実行すればいいのです。別の言い方をすれば,初めは多少の偽善を自覚しつつも,スポーツ選手のトレーニングのように,機械的に正しい行い(すなわち自分の真実に従うこと)を繰り返せば良いのです。

例えば,あなたが道に落ちているごみをどうしても拾いたくなったとします。そのとき,潔癖な人だと「人が見ているところでごみ拾いなんかするのは偽善だ」とかなんとかいろいろ考えるかも知れません。

しかし,拾いたいのなら,なにがなんでも絶対に拾うのです。人が見ていようが見ていまいが,偽善であろうがなかろうが,とにかく一種機械的な忍耐心をもってそうするのです。

それを何百回も繰り返せば,しまいには,ごみが目に入ると,なにも考えずにほとんど無意識のうちにそれを拾っているようになります。それが習慣ないしは癖になってしまうのです。

これはたとえです。ごみ拾いの勧めではありません。このたとえは「無意識化」の意味を説明するためのものです。

すなわち,すべてにおいて,つねに自分がすべきだと感じたことをするように心がけていれば,しまいには,あなたは正しいことしかできない体質になってしまうのです。善行一般が無意識化されてしまうのです。これが〈魂が至純の光になる〉ということの意味です。

ここで善というのは,必ずしも世間のいわゆる善とは一致しません。あなたが,あなたの心に照らして「こうすべきだ」と思うことが,あなたにとっての善であり,あなたにとっての真実です。

意識して人の思いから意図的に善を行おうとするから,偽善性が生じるのです。

画家は,その修行の過程において,意識的に他人の作品を模写します。色彩の法則を学びます。意識的にデッサンをします。そしてある種の「パターン」をつかむと,無意識のうちに自分でそれを使いこなせるようになります。この無意識化は,美という側面における霊的向上です。

芸術における意図的な模写は盗作です。少しもその人の真実になっていません。“偽美”とでもいうべきものです。

数学者は,学生時代,さまざまな古典から数学のセンスを学びます。そして,やがて無意識のうちに,問題の価値を直感できるようになります。例えば,定理をどの方向へ拡張するか,といったセンスです。

数学の本質的な部分は論理的ではありません。数学における真に創造的な仕事には,無意識から発する「直感」や「アイデアのひらめき」が必要です。

英語を勉強するとき,初めは文法に従って,意識的に単語を並べます。しかし,上達すると,文法のことなど考えずに自然に英語を使えるようになります。

文法のことをいつも意識していたのでは,英語をスムーズに使うことはできません。

ピアニストは新しい曲を一音一音学びます。ひとつひとつのパッセージの指使いを研究します。しかし,さらいこむと,もはや指使いのような低レベルのことは意識せずに,全体をすらすらと演奏できるようになります。

指使いのことなど意識していては,スムーズな演奏はおぼつかないでしょう。

運動選手は初めに正しいフォームを学びます。「あごを引いて,背筋を伸ばして」といったことを意識して自分に課します。しかし,トレーニングを積むと,そういった低レベルのことはすべて無意識になってしまいます。何も考えなくても,自然に正しいフォームで無駄のない美しい動きができるようになるのです。

正しいフォームをいちいち意識していては,スムーズに動くことはできません。

もうこれ以上,例は挙げません。ただ,真・善・美が,その実相においてはひとつのものである,という感じをつかんでいただければ良いのです。

真・善・美の実現とは,ある深いイデア,同じひとつのものであるイデアを,無意識のうちにくみあげる,ということです。意識してではできません。意識してやるなら,それは人の思いから発する善の模倣,美の模倣,真の模倣です。

しかしながら,無意識化のためには意識的な模倣・反復が有益です。意識的に無意識化を行うのです。

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ある人はまた別の理由から自分の中の光を隠そうとします。「私の中には闇もあるのに,善人づらをして光を輝かせるなんて偽善である」と考えてのことです。つまり,「こんな私が見かけだけりっぱな行為をしてもそれは偽善だ」と感じるのです。

そう感じる人はとても純粋で,潔癖なのでしょう。

でも,だからといって,偽悪的になってはいけません。あなたの中に光があることも確かだからです。

あなたは光を持っているのだから,素直に「私は光を持っている。私の中には善のイデアがある」と考えて良いのです。そう考えてはいけないという理由はどこにもありません。あなたが光を持っているのなら,その光を輝かせればいいのです。輝かせてはいけない理由はどこにもありません。

せっかくあかりを持っているのなら,あかりをわざわざベッドの下や押し入れの中のような変なところに置かず,まっすぐテーブルの上に置きなさい。

部屋が薄暗いと思っているのなら,なおさらです。

外形的な偽善は罪ではありません。あなたがあなたの良心に従っている限り,どのような外形的行動も罪ではありません。偽善よりも,心の中で罪を犯すことを恐れなさい。

「こんな私がこんなことをしてもそれは偽善だ。だからやめよう」といった自己欺瞞におちいらないように注意してください。

「功徳を積むために善行するなんて偽善だ。だから善行をしない」といった自己欺瞞におちいらないように注意してください。

「正しいことをしていい気持ちになるなんて自己満足だ。だから正しいことをしない」といった自己欺瞞におちいらないように注意してください。

こういった自己欺瞞によって光から顔をそむける自分を正当化するくらいなら,神の前で偽善者になりなさい。光と闇のあいだで揺れ動きながら,あえてしらじらしく善を行いなさい。それが純然たる善へといたる道だからです。

光から顔をそむけつつ闇の中を歩けば,次々と不愉快なことが起こります。へびを踏んづけたり,がびょうを踏んづけたりします。思わぬでっぱりにつまずいたり,穴に落ちたりします。

しかも,目が闇に慣れてしまうと,清らかな光を見るのが苦痛になります。だから,光を恐れ,ますます光から目をそむける……。これがいちばん恐ろしい点です。闇の中にいる者は,ますます闇にとりこめられ,道を失ってしまうのです。

これに反して,光に向かって進む者には,なにひとつ悪いことが起こりません。どんな場合でも,それは深い意味での前進になっています。

だから,あなたが心を澄まし,つねに清らかな光を求めるなら,あなたは自然に幸運体質になります。

一方,正しいことが分かっていながらそれをしなかったり,正しくないと分かっていながらそれをしたりすると,あなたの心はどんよりとして,あなたはいつも心の満たされない人間になります。

善き生活は善きものをもたらし,悪しき生活は悪しきものをもたらします。これは肉の繁栄とは無関係に定まる永遠の法則です。この法則を,あなたがたは神と呼んでいるのです。

すると潔癖な人は言うでしょう。「善きものを得るために善きことをするのは見返りを期待した行為で,不純である。利己的である。正しいことではない」

しかし,真実はこうです。すなわち,あなたの魂があなたに「こうすべきだ」と命じた場合,あなたは,それに従うか,それにそむくか,そのどちらかを選ぶしかないのです。光を選ぶか闇を選ぶか,ふたつにひとつです。“偽善”を選ぶか“純悪”を選ぶか,ふたつにひとつです。

悪を選び闇の中に入るくらいなら,あえてしらじらしく“偽善”を選びなさい。

あなたが潔癖であり,かつ魂に多少の闇を残している限り,あなたはどうしても自分の偽善性を感じることがあるでしょう。でも,あなたの魂が光100%になれば,あなたはもっと自然に,正しくふるまうことができるようになります。それまでの辛抱です。

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弱い人たちは「正しいことをするのは良くない」と考えるふりをしています。「ひとりでいい子ぶるな」などと言って互いに牽制しあうのです。自分に正しいことをする勇気がないので,他人が正しいことをするのを見ると劣等感と良心の痛みを触発されるのでしょう。そうならぬよう,彼らは同盟を結び,偽悪的にふるまいます。「どうせ私らは凡人だから」「平凡がいちばん」というわけです。

勉強の苦手な学生たちが「抜け駆けするなよ」と牽制しあうのと同じことです。「勉強するのはいい子ぶりっこの悪いことだ」と信じるふりをすることによって,仲間の成績が向上するのを牽制し,同時に,勉強しない自分を正当化する。弱い者たちが「みんなで弱いままでいよう」という同盟を結ぶのです。

心の奥で「自分は間違っている,歩きだしたい」とじりじりしながら,光から目をそむけ,じっとりと汗ばんだ手をとりあって闇の中にとどまる。そして,すべきことを忘れるために肉において浮かれ騒ぐ……。

けれど,すべきことをしていない以上,いくらそれを忘れたふりをしてみたところで,本当には楽しくないでしょう。

むしろ,出口のない闇の中を逃げまわるのはつらいものです。忘れたふりをしようにも,その人が忘れようとしている光はその人の心の中にあるのだから,忘れることなどできっこないのです。オートバイに乗って猛スピードを出そうが,飛行機で地球の裏側へ行こうが,自分から逃げることはできません。自分と正面から向きあわない限り,出口はないのです。

あなたはそのような世の同盟とは手を切って,断固として,光へ向かってあゆみなさい。あなた自身の真実に従いなさい。闇からの誘いは魚を釣るためのうじ虫である,と見抜いて,離れて立ちなさい。

誘いを飲むと,抜き去りがたい釣針があなたのあごをとらえるでしょう。肉の目にはおいしそうに見えたうじ虫も,あなたの魂には少しも甘くないでしょう。ただ時が失われ,むなしさとやるせなさが残るのです。

いろいろなことを学べば,それだけ世界がひろがり,心が豊かになるに決まっています。それを牽制しあうとは愚かしい。わざと自分をつらく,つまらなくしているのです。

同じように,光に向かって歩めば,あなたは次々と素晴らしいものに出会うのです。最高に素晴らしいものがあなたを待っているというのに,わざわざそれを避けて通るなんてまぬけなことじゃありませんか……。わざわざ暗い闇の中にとどまり,つらく,つまらない人生を送る。これ以上まぬけなことがあるでしょうか。

そうです。私たちの勧めは,実に悦楽主義なのです。あなたに素晴らしいものを味わっていただこうと思っているのです。肉に属するつかのまの快楽ではない,永遠の果実,普遍の美を,あなたに知っていただきたいのです。

光への道であなたが出会うさまざまなものは,あまりに美しすぎて,人間の言葉にはとうてい翻訳不可能です。ですから,私たちはそれについて語ることができません。でも,予告することはできます。それは最高に素晴らしいものです……。

あなたはこの浄福を得ていいのです。自分の喜びを得るために向上するなんて“利己的”だ,などという言葉のロジックにとらわれてはいけません。“点取り虫”という言葉のロジックで牽制しあう愚かな生徒たちのことを思い出してください。

勉強を恐れて逃げまわる学生のように,光を恐れ,暗くじめじめとした闇の中をさ迷ってはいけません。変なものを踏んづけたり,電信柱にぶつかって大きなこぶができたり,思わぬ穴ぼこに落ちるのが関の山です。下水道のようなところにでも転げ落ちれば,ますます光から遠ざかり,もうどっちへ歩いていいのやらてんで分からなくなってしまいます。マンホールに落ちれば,落ちたのもみじめだし,たとえそこから出られるにしても,よじのぼるのもまたみじめです。穴に落ちなければ,穴から出る苦労もありません。

このたとえの意味を良く吟味しなさい。

あなたに心をこめてお勧めします。低きにつくテレビ番組からは,きっぱり足を洗いなさい。

それは魚を釣るためのうじ虫だからです。

テレビや化学調味料(“アミノ酸等”)は,それ自身好ましくないばかりか,あなたの清純な感覚を曇らせ,正しい方向感覚をまひさせてしまいます。その点がいちばん怖いのです。

あなたの魂を,死んだ魚の目のようにしてはいけません。むしろ,いつも生き生きと魂において目覚め,心の中に永遠の朝を持ちなさい。夜明けの希望を,新年のすがすがしい抱負を,つねに心に持ちつづけてください。

世の時計が何時を指そうが,あなたが目覚めている限り,時は朝です。あなたの中にかぐわしい朝の光があるのです。その光で,あなたの行く道を照らしなさい。

世のこよみがどうあれ,あなたが目覚めている限り,日は元日です。あなたには「今日」という日しかないのです。

さまざまな逃避先に逃げ込んではいけません。自分で分かるはずです。光の射してくる方向から目をそらし,けして満たされることのない逃避的な〈たいくつ〉を味わってはいけません。

つながれている棒の回りをぐるぐるまわって自分で自分を縛る犬のようになってはいけません。ひもがこんぐらかって,がんじがらめの亀甲縛りになるだけです。

そうなる前に,闇の縄をくいちぎって,光の中へ逃げてきてください。逃避からの逃避です。
(もっとも,外形的な「逃避」がすべていけないというわけではありません。正しく判断ができないときは,いったん意識をほかのことに向けるほうが良いのです。散歩に行ったり,お風呂に入ったりして,システムの外に出ることです。しかし,この点でも,あくまであなたの魂に従ってください。問題から逃げているのか,判断を熟成させているのかは,自分で分かるはずです。)

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私たちの教えは単純で,いささかのあいまいな点もありません。あなたが,自分にできるいちばん善いことをしようといつもせいいっぱい努力していれば,あなたの魂はどんどん善くなって,最後には一点の曇りもない至純の光になるのです。

そして,そのときには,もうあなたは妖精の国の一部になっています。

これは〈死後,天国に行く資格が与えられる〉というような意味ではありません。正しい道を歩けば,あなたは肉体が生きているうちに妖精の国へいたることができます。私たちは魂の話をしているのだから,肉体が生きているか死んでいるかなど関係ありません。

地上における修行は,物質を通してのみ可能です。だから,肉が滅びる前に――卒業の時期が来る前に――必要な修行を終えてしまうべきです。

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