妖精の国を理解するには,〈純粋な愛〉について考えるのが早道です。
純粋な愛には奇妙な性質があります。与えてもなくならないのです。
実際,与えたからといってあなたの中の愛が消滅するわけではありませんし,また,与えられた愛は,それが与えられた相手の中に確かに届きます。
愛するということは確かにあなたの中から愛が出ることですが,だからといってあなたの中の愛は消えません。
これはポンプの働きに似ています。あなたがあなたの魂から純粋な愛をそそぐと,そのとたん妖精の国からあなたの魂の中へ純粋な愛が流れ込むのです。それは妖精の国に由来する命の水です。
けれど,もしあなたが「私は誰々を愛そう」と思って愛するなら,それは純粋な愛ではありません。疲れる愛です。意識して愛しているからです。燃え尽きてしまう愛です。人の思いから発しているからです。
あなたがデパートで迷子の子供を見つけたとき,あなたはその子供を案内所まで連れていってあげるでしょう。放送で保護者のかたが呼び出されるまでのあいだ,あなたはその子についていてあげるかも知れません。
あなたはなぜそうするのでしょう? その子の親に感謝されたいから?
そうではありません。
では見返りを期待して? まさか!
人に見てもらうためにそうするのでもありません。
善を積むためにそうするのでもありません。
愛するのは善いことだからそうする? そうするのが当たり前だから? 世間常識だから?
そうではありません。べつにその子についていてあげなくたっていいのです。その子を案内所まで連れていったことで,あなたの社会的義務はすでに果たされています。
けれど,あなたは,ただ,その子のために,そうしてあげたいから,ついていてあげるのです。それがあなたの真実だから,そうするのです。
ここに命の水があります。
お母さんがやって来ると,あなたは子供のために「良かったね」とほほえみを浮かべて,その場を立ち去ります。あなたはこのできごとをすぐに忘れてしまうでしょう。その子も,その子の親も,このできごとをすぐに忘れてしまうでしょう。そして,あなたがたは,もう二度と出会うことはないでしょう。
ここに命の水があります。あなたが浮かべたそのほほえみが命の水です。
芸術家が優れた作品を完成させたとき,世の人は美を受け取ります。しかし,芸術家の心の中の美が失われたわけではありません。これが命の水のくみあげです。
芸術家は,人を感動させるためにそれを作ったのではありません。神に奉仕するためにそれを作ったのでもありません。ただ,やむにやまれぬ美の衝動のままに,自分の中の真実として,それを作ったのでしょう。これが命の水のくみあげです。
フェルマー以来,三百年のあいだ,世界最高の数学者が日夜考えに考えつづけて,ようやくひとつの定理が証明されました。
この世には,三百年考えつづけてようやく答が出るような,そんな難しい問題があるのです。
この世の背後にあるものは,あなたが思っているよりずっと深いのですよ。
そんな深くて美しいものをかいま見てしまうと,数学者はもう考えつづけずにはいられなくなります。普遍の美をその美ゆえに追求する芸術家と同じことです。
ここに命の水があります。
実に,妖精の国は命の水です。それは,この地上では,数学的な純粋の真理,まごころからほとばしる純粋な善,ないしは優れた芸術作品の背後にかいま見える普遍の美を通して体験されます。
これら真,善,美は,その実相においてはひとつのものです。それを仮に〈命の水〉と呼ぶのです。〈純粋な愛〉といっても良いでしょう。
妖精の国へいたるということは,妖精の国から命の水をくみあげるポンプになる,ということです。地上と妖精の国とを結ぶ水門になる,ということです。
妖精の国から,あなたの魂を通じて,命の水が自然に流れ出る,ということです。
そうなったときには,あなたはすでに妖精の国の一部になっているのです。
命の水(つまり普遍の美や善行)が自然にさらさら流れ出ないとすれば,それは,あなたの思い(例えば結果を人から称讚されたいといった)につっかえているからです。人の思いゆえに真・善・美が濁らされているのです。
これを別の角度から見れば,命の水の門になるということは,いっさいの執着がなくなるということです。執着の主体である〈私,私〉という思いが消滅する,ということです。
もはや「こうすれば私の利益になる」とも「こうすれば誰かの利益になる」とも考えていません。あなたは,ただ水を通すだけの門です。
もはや「私は自分を愛そう」とも「私は誰々を愛そう」とも考えていません。あなたは,ただ水を通すだけの,透明な門です。
するとあなたは「私はない」ということの意味に気づくでしょう。
そのときには,あなたはもう妖精の国の一部になっているのです。あなたから出るものは妖精の国から出るのであって,あなたという人間から出るものではありません。
この状態は,象徴的に妖精のさなぎと呼ぶことができるでしょう。外形的にはまだ人間の形をとって生きていますが,もうなかみは妖精になっているからです。
それは,魂が透明になる,ということです。
透きとおってしまう,ということなのです。
地上のあらゆることから解放されるのです。〈私は解放される〉とか〈私は解放されない〉とか考える,その〈私〉が透きとおってしまうのです。
すると,死んだら天国に行くか地獄に行くかといったたぐいのことは,あなたとは無関係の問題になってしまいます。「私は天国に行く」とか「私は地獄に落ちる」というその「私」がなくなってしまうからです。
言葉の便宜上,「至純の光となった魂が至純の光の中に溶け込む」と言っても良いでしょう。また,「普遍の法則の具現となることによって,普遍の法則と一体化する」と言っても良いでしょう。その人の行動はすべて,無意識のうちに,普遍的な真・善・美に従っているのです。
あなたがいつも心に照らして善いことだけをしようと心がけていれば,しだいにそれが無意識になって,あなたは善いことしかできない体質になってしまうのです。そのときにはもう,あなたの魂は至純の光になっているのです。
ここで「善いこと」というのは,何度も言うように,「あなたにとっての真実」です。世のいわゆる善行を無批判に繰り返しても駄目です。
なにものにもとらわれず,ただ自分の真実に忠実であること。このことこそ,あなたのあゆむべき正しい道です。そうすれば最後には光100%になれるのです。
なにものにもとらわれない,ということは,「なにものにもとらわれない」という言葉にもとらわれない,ということです。例えば,あなたが料理をするとき,「私はなにものにもとらわれない。相手の好みにもとらわれない」などと馬鹿げたことを考えてはいけません。「どんなときでも,自分でいちばんいいと思うようにする」ということが,なにものにもとらわれない,ということです。
でも,妖精の国へ行くためにそうする,というのは,正しい道ではありません。それでは「妖精の国へ行くこと」にとらわれています。
妖精の国への最後の一歩は,「私は妖精の国へ行きたい」という思いを捨てることです。
そこまで透明になってこそ,妖精の国にふさわしいのです。
妖精の国は「天の国」とか「イデア界」とも呼ばれています。「ニルバーナ」という別名も持っています。
そこへいたるのには,べつに難しい修行や瞑想や悟りは必要ありません。必要なのは「つねに自分の中のいちばん良い心に従う」という機械的な心がけだけです。
それも初めから100%完璧である必要はありません。普通人よりたった1%だけ強い意志を持ち続けることができれば充分です。
たとえ自分の真実を裏切り,光から遠ざかったとしても,また光の方へ戻ることはできます。ですから,さしあたっては,51%以上の割合で良心的であれば良いのです。「こうすべきだ」「こうしてはいけない」と思ったときに,それを少なくとも2回に1回より多い割合で守るようにしてください。そうすれば,3歩あるいて2歩さがるような仕方で光に近づくことができます。
あなたの魂が至純の光に近づくにつれ,この割合は自然に増加します。ある地点に達すれば,臨界点に達した原子炉のように,光が爆発的に増殖して,闇を完全に追い払うことができるようになります。
たいていの人は50%のところでたゆたっています。夜と朝のあいだの薄闇の中で,方向が見定まらず,ふらふらしています。
あなたが断固として朝の方へ向かえば,辺りは明るくなり,すっかり道が見定まるのです。そうすれば,自信をもって正しい道をどんどん歩いてゆけるようになります。朝の光の中で,これまで見えなかった色彩を見るでしょう。花や樹木の輝きを見いだすでしょう。鳥の歌を聞くでしょう。あらゆるものの光と影がはっきり見分けられるようになるでしょう。
あなたにその力があるのなら,51%と言わず,90%以上の確率で魂の指示に従うことです。そうすれば,あなたの魂は急速に目覚め,急速に視野が広がり,あなたは今まで知ることのなかった美しい世界を知るようになるでしょう。
もしもあなたがいもむしであるなら,自分がやがて蝶になるなんてとても信じられないでしょうね?
でも,なるんですよ。
妖精の国への入り口はいつでもあなたのすぐ近くにあります。それはあなたの中にあるのです。
妖精の国の門は見つけやすい門です。自ら光を放っているからです。
けれど,あなたがその門から目をそむけるなら,その門は永遠に狭い門でしょう。
夜中に静かな部屋にひとりでいるときに,あなたはふと「自分」に気づきそうになって怖くなるかも知れません。そして慌ててテレビをつける……。
そんなふうに外側に目をそらしてはいけません。物質界には答はありません。苦しいときこそ,できるだけ自分から目をそらさないでください。答はあなたの中にあるのです。目をそらさずに光を見てください。恐れることはありません。それはあなた自身だからです。
出口の無い闇の中を逃げまどうくらいなら,あなたの日記に書きなぐりなさい。苦しければ「苦しい」と叫びなさい。「私は苦しい」と。「なにがいけないのか? 私はなにをしたいのか? 私はなにをすればいいのか?」と。
光が見つからないなら,探しなさい。それは,自分がなぜ不満なのか見つける,ということです。自分は何をすべきなのか見つける,ということです。答はあなたの中にあるはずです。自分に繰り返し問いつづけてください。自分の心と直面するのです。自分の気持ちをのぞきこむのです。恐れてはいけません。それはあなた自身なのです。あなた自身があなたの光なのです。
恵みはすでにあなたの前に置かれています。あとはただ,あなたがそれを見つけて,受け取ればいいのです。
それは,あなたが「しなければいけない」と分かっていながらしないでいることをする,ということです。とりくまなければいけない,と分かっていながらとりくまないでいることにとりくむ,ということです。あなたの真実を始動させる,ということです。
そうすれば,あなたはホッとできるのです。すがすがしい心の喜びを感じることができるのです。
それは逃避先のテレビの笑いなんかよりずっと深い,本質的な喜びです。
そうやって,ひとつひとつ問題をかたづけてゆくのです。正しい方へ一歩一歩,歩いてゆくのです。
歩いていっていいんですよ,ユーラ。歩いてはいけないなんて理由は全然どこにもありません。深い心の喜びを求めていいのです。求めてはいけないなんて理由は全然どこにもありません。
あなたは美しくなっていいのです。美しくなれるのです。
妖精の国への門はあなた自身です。
門がひらけば,あなたの心は妖精の国と地つづきになります。あなたの中に妖精の国が来るのです。
そしてあなたの門からは,命の水があふれ出るでしょう。美しい春の泉のように。
それは本当に素晴らしいことです。
そして,少しも難しいことではありません。
ただ,いつも,あなたのできる範囲でいちばんいいと思うことを,せいいっぱい実行すればいいのです。
自分から逃げないで,せいいっぱい立ち向かえばいいのです。
それが妖精の国への道です。
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