たぶん、誰でも不思議な経験はするだろう。 人生において、世界において、ときどき(人によっては頻繁に?) インスピレーションのひらめき。 何かが乗り移ったようなほとばしり。 神秘的な、奇跡的な現象・体験。 偶然なのだが偶然とは思えない、エトセトラ。
このことは2とおりに説明できる。
どちらのモデルも現実の説明として正しい。 たとえるなら、 太陽を中心に地球が回るとしても、地球を中心に太陽が動くとしても、説明としては、どちらでも構わないし、 どちらのモデルも状況によっては便利である。
詳しい言うと、
太陽系を巨視的に理解し、冷徹な位置計算を行うには、太陽が中心で「地球が自転しながら公転する」と思った方が便利であるが、
地球を中心に、地球に対する「太陽の動き」を正しく計算する式を作ることも可能である ―― 「太陽は東から昇って西に沈む」「約24時間で一周するが実際には恒星に対して24時間ちょうどではない」「だから星座に対する太陽の位置は毎日少しずつずれる」「つまり黄道上を1日約1度動く」「これが季節によって見える星座が変わる理由だ」という理解もまた適切であり、実際に教科書にもそう書いてある。人間が現象を理解するには、まずは、そのモデルの方が分かりやすい。
一方、地球からみた火星の動きを記述するには、太陽を中心に惑星が回っているというモデルの方がはるかに簡単である。 しかし、地球を中心にした座標系だけを使って、複雑な三角関数の和などで、火星の動きを正しく記述することも可能である。 どちらも観測事実に合致するという意味では間違っていない。 本当に突き詰めるなら、前者が簡潔で後者が煩雑であるというだけの違いだ。 相対論によれば、絶対的な意味でどちらが本当に動いているのか?と言うことは、できない。
同様に、神秘的な力が働いて、霊感がひらめき素晴らしい作品が生まれたとか、奇跡的な出会いがあった、などと、 説明することは、可能である。 また、すべてを物理的な機能・脳の機能から説明することも可能である。 どちらも間違っていない。 違いと言えば、 前者は「神秘を中心に世界が動く」の一言で簡潔だが、 後者は物理的メカニズムの和ですべてを説明するため、非常に煩雑になるであろう、ということだが、 原理的にはどちらも間違っていない。
もちろん簡潔でエレガントなモデルが好まれる(というか便利である)ので、 一般には「きょう不思議なことがあったよ…」「アイデアがひらめいた…」などと「不思議なこと」「アイデア」を主語に、 それらを中心に語る。一般には「太陽を中心に惑星が動く」と考えるのと同じことだ。 へそ曲がりな人が「きょうは確率0.001%で発生する事象が発生しました」とか「夢と呼ばれる脳の不随意の機能を介して問題を解決する方法が言語野に認識された」などと発言することも全然間違っていないし、そういう発想の転換はむしろおもしろいが、 そうは言っても、通常は、太陽系では惑星の方が動くものだと仮定するし、 偶然は起こされるのでなく起きるものだと仮定するし(何かの必然的結果として説明した方が早いことは偶然とは言わない)、 インスピレーションは向こうからひらめくものであると仮定する。でも、その根拠は、要するにその方が話が早いからだ、というだけにすぎない。
天動説と地動説、 科学と非科学の対立、神秘と物理の対立は、高レベルにおいては意味がない。 それらはユーザ体験を説明する低水準のモデルにすぎず、どちらのモデルも状況において一長一短、それなりに有効である。
ざっくばらんに言えば、人生は理屈だけでは割り切れない。世の中には不思議なこともある。 しかしそうした奇跡的なことも説明しようと思えば、小さな必然の積み重ねで説明できる。 小さな必然がたまたま重なるその「理由」こそが、科学万能主義における「神秘的」である。 地球座標系における火星の動きの「不思議」(逆行など)は、たくさんの震動成分の長い和としても記述可能であるが、 どうしてそうなるかの「理由」が「不思議」なのである。もし地球中心の地位を「あきらめて」太陽を中心の座標系に移れば、すべては単純であるが、 原理的にはどちらも間違っていない。同様、もし科学万能主義・絶対的即物論を「あきらめて」神秘は存在するという世界観に移れば、すべては単純であるが、 原理的にはどちらの観点も間違っていないし、すべてを科学的な成分に分析していこうという「人間中心」の態度は推奨される。 神秘100%では投げやり過ぎる。「火星の動きは神秘です。人間には予測がつかない」で終わってしまうのは本当の神秘ではない。 「地球からの見かけの動きは不思議だが別のモデルに移行するとすべてが美しく説明できる」、というのが本当の神秘であり、アイデアのひらめきというものだろう。
この世界は神秘的だが、神秘には神秘の世界なりのしくみがあるはずだ。
別の言い方をすれば、
完全な、あるいは、人間を越えた人工知能は構築可能である:
人間の脳は機械にすぎず、単に機械的なアルゴリズムで同様のものやそれ以上のものを作れるが、
そうしてできたプログラムは夢を見るし、不思議な経験をするし、ポエジーを持つ。不思議は構築可能なのである。
「人間の脳など機械にすぎずやがて完全な人工知能に追いつかれ追い越される」「すべては科学的に説明できる要素の和に過ぎない」ということと、 「この世界には科学では説明できない不思議なことがある」「神は存在する」ということは、実際には、同じ一つの信仰だ。
火星の動きが不思議であることが発見される。それを説明しようと複雑なモデルが作られる。一応の説明が可能になるが微妙に差がある。 あるとき地動説という新しいアプローチが発見される。火星の動きが単純な式で簡単にエミュできるようになる。 しかしなぜ太陽系がそうした姿をしているのかは依然、未知であり、重力の「正体」も不思議だ。 太陽を中心に回るのだ、ですべて解決したと思う人には「なぜ回るのですか」と問いたい。 それもやがて解明されるだろうが、そのモデルには新しい不思議があるだろう。 不思議と理屈はいつも絡み合いながら進んでいく。対立関係にあるからこそ、ライバルとして高めあう。
不思議を解明するより高度な理論は、より深い神秘への扉を開く。
ミルクでつくってあるらしいけど アイスクリームは 猫じたには だめだ あちいとさわいだら 人間が 「猫は冷たいのもだめか」 なんていうわけ つめたいのとあちいのって 最初は似ているね
from 大島弓子「ミルクラプソディー」
五感のうちの「触覚」は、狭義の触覚のほか、圧覚、温覚、冷覚、痛覚などに細分できる。冷たいものが触れると冷覚が、暖かいものが触れると温覚が生じるが、ある程度以上の熱さのものが触れると、温覚と同時に冷覚が生じる。いわゆる矛盾
経験的にも、寒い冬に冷えたからだで、熱い湯ぶねにつかったとき、暖かいと思いつつ、まるでお湯のなかで寒さを感じているかのように、からだが震えることがある。
人間のマシン的実装という観点。
「ヒュム」には外部の温度を認識するための温度センサー(thermoreceptors)が実装されている。温度センサーには、言語系が「暖かい」と翻訳する刺激に感応する「warm fibers」と「冷たい」と翻訳される刺激に感応する「cold fibers」があって、異常な高温または低温によって、ヒュムの機能に不具合が生じる可能性が起きた場合、自律的に危険を回避するためにも用いられる。
適切な温度であれば、Warm パラメータが大きく、処理系にはシグナル10「情報、暖かいです」が送られる。「情報、冷たいです」なら01だ。この2ビットで「警告、非常に熱い」を伝えるには「11」か「00」しかないが、処理系に緊急の対応を要求する意味でも警報全開の「11」が自然だろう。同様に、「警告、非常に冷たい」も、たぶん11になるのだろう。高温すぎるのか低温すぎるのか区別がつかない可能性があるが、その点は視覚など他のセンサーで判別するしかない。温覚、冷覚のわずか2ビットの帯域を最大限に活用して効率化を図るための実装だ。
"Cold and warm fibers" cited from Touching experience: Receptors, Psychology 369 - Fall 2000, Sensation and Perception (Dr. D. Kline/Dr. E. Slawinski), University of Calgary
ごらんのように、Cold fibers は皮膚温が正常な体温の±10℃のあたりで最大限の警告を発するセンサーであり、実際には「冷覚」のみならず「異常高温」で処理系が熱暴走する可能性が生じると、Warm fibers より、むしろ Cold fibers が警告を発する。心頭滅却しなくても「火は涼しい」どころか「冷たい」というのがヒュムの実装で、「暑い」とは「極度に温暖」でなく、ヒュム実装系においては「暑い」=「冷覚の激しい励起+若干の温覚」だ。
ところで、五感以外の「第六感」などという言い方をすることがあるが、最近の知見によると、実際には人間の感覚は、もともと10種類以上、たぶん20種類程度あるという。耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、目(視覚)、舌(味覚)、肌(触覚)の古くから知られていた5つの感覚器のほかに、身体内部にも、それと並列される「深部感覚器」があって、身体の位置情報、平衡感覚、さまざまな内臓感覚などを処理している。これらの深部感覚は、通常の表層意識ストリーム(知性体自身が自分の意識、すなわち自分と意識している自分)によって直接的に認識されない低水準の動作であり、意識して対応しなくても、処理系が自動的に処理する。意識体の介入が必要なとき ―― 例えば「リソースが不足している」というとき、処理系は、高水準の意識体に対して「不快ビット」を立てた「空腹」Message をポストする。意識体はこのメッセージを受けると、通常、まるで「自分の意思」でそうするかのように食事をとる。実際には、最下層のオペレーティングシステムが、端末であるあなたに「用紙を補給して下さい」などと命令しているにすぎない。
あなたがいなくても(場合によっては、たとえ脳のあなたの意識をつかさどる部分が死んでいてさえも)、あなたのからだの低水準の処理系は、一般には影響を受けない ―― あなた以外のだれかが必要に応じて「用紙補給」などのメンテをしてくれるなら。
あなたの身体にとって、あなたなど必要ない。原理的にはあなたのからだの保守者は、あなたである必要などない。 ―― ちょうど、あなたにとって、あなたの身体など本質的には必要ないように。