動作中の脳さえあればどんなときも、どんな場所でも行える遊び。
純粋にゲームとして楽しむためには、お題はなるべくこれまで一度も考えたことのないようなことで(考えたことがあると既に何らかの意見があるので)、 どちらが優勢でも誰にも利害関係がないような突飛なことの方がいい。
応援は人間の創造的活動であり、工夫を凝らし、日夜の厳しい練習と努力によってその技術を高めます。 チアリーディングは独立したスポーツ競技と認められ難易度の高いコンタクトスポーツですし、 ブラスバンドに高度な音楽技術が望まれることは言うまでもありません。 そのような活動で努力する人たちを応援することは、もちろん正しいことです。 これを否定する反対派の見識を疑います。
応援団は応援の専門家です。 スポーツ競技などのイベントを盛り上げるメンタルサポートのリーダーであることを要求されます。 チアリーダーとはまさにそのリーダーシップを指すのです。 応援団は率先して元気を振りまく存在であらねばならず、 応援されなければ元気が出ないような応援団は応援のリーダーとして失格です。 応援団を応援する行為は、まさにこの「あなたがたは応援が必要だ」という侮蔑に相当するのです。 応援が必要な応援団は既に自己矛盾に陥っています。
そのような説は人間性の本質に根ざさない、空虚な論理遊びであると厳しく糾弾されなければなりません。 料理のプロが料理を作ってもらう喜びを味わってはいけないというのでしょうか。 愛を説く牧師さんや神父さんが周囲から愛されてはいけないというのでしょうか。 繰り返しますがチアリーディングはスポーツです。 アクロバットを含む体操競技です。 スポーツ選手を応援することのどこがいけないのか、理解に苦しみます。
賛成派は論点のすり替えを行っています。 このディベートのテーマは「応援団を応援すること」の是非であり、スポーツ競技としてのチアリーディングに限定されるものではありません。 例えば精神的理解や活動資金のためのバザーに協力するといった漠然とした「応援」の議論でもありません。 広い意味ならどのような正当な活動であっても、他人の努力は妨害するより応援する方が良いに決まっており、議論はトリビアルになってしまいます。 拡大解釈や特殊な限定的解釈を行わず「応援団」という言葉が通常意味するところの「応援」活動を問題にしてください。 応援団を精神的・経済的などの広い意味で肯定・支援することはもちろん是です。 見事なチアリーディングの曲芸に対して、どよめきや拍手が起こるのももちろん自然でしょう。 しかし一般論として、応援活動中の応援団に向かって「フレー、フレー、がんばれがんばれ応援団! 元気を出せ出せ!」などと声援を送ることは、本質的に極めて失礼な行為です。手の込んだ皮肉としか言いようがありません。賛成派こそ、当事者の身になって、人間の心をよく考えるべきではないでしょうか。
一見正当なようですが、その意見は間違っています。 応援団といっても人間であり、無限の元気を持っているわけではありません。 特に応援対象のチームが劣勢のとき、エネルギーを維持し続けることは大変なことです。 しかも応援という活動の性質上、その苦しみを表に出すことは許されないのです。 誰よりも苦しみながら、誰よりも明るく振る舞うことを求められるのです。 それこそが「当事者の心」です。 そうした立場にある応援団を励まし応援することは、なるほど言葉の上では自己矛盾かもしれませんが、 人間の現実として極めて正当で共感可能な行動です。 しかも応援という行為の最終目標は一方的に観衆をリードすることではなく、 観衆と一体となってイベントを盛り上げ、究極的に人間の幸福に寄与することにあります。 そこにあるのは、応援し、応援される相互関係、励まし、励まされ、支え、支えられる友愛と連帯であり、決して一方的な主従関係ではありません。 あるべきでもありません。 応援団が声援を受けることのどこが問題なのでしょうか。 応援団が何をしても拍手などせず、存在を無視し続けろとでもいうのでしょうか。 応援団が見事なことをすればそれを応援したくなるのは自然です。 単純で動かし難い人間の真実です。 本ディベートのテーマは「皮肉にも取れる応援をすること」ではなく普通の意味で「応援をすること」です。 様態によっては皮肉にもなりうるから、などというのは理由になっていません。
賛成派はまた論点のすり替えを行っています。 「チームが特に劣勢のとき」「応援団が見事なことをしたとき」などというのは、限定的な事象であり、 その限定条件を付ければ応援団を応援することが自然に見える可能性を含む瞬間が存在する、という指摘にすぎません。 そのような瞬間が存在するということは、わたしたちも当初から認めています。 しかしそのような瞬間が仮に全体の時間の中に数パーセントあるからといって、 一般論として応援団を応援することが正しいということにはなりません。 応援団は本質においては、みずからの気持ちを盛り立て、観客や応援対象チームのムードを高める主導的役割を果たすことを求められています。 確かにそこには苦しみや困難もあるでしょうが、その困難こそが応援団がみずから立ち向かう挑戦であり、 存在意義なのです。 外部から盛り立ててもらわなければその核心の挑戦に立ち向かう勇気がない、というのであれば、 応援団は存在意義を失っています。 苦境にある応援団を応援してムードを回復させることができる人がそこにいるのなら、 その人の強靭な意志力を直接、劣勢の応援対象チームの応援に向ければ済む話です。 つらい立場でも勇気を失わない応援団に感動したり同情したりすることは結構ですが、それは「応援団が応援を必要としている」「応援団を応援することが正しい」という証明にはなり得ません。応援団として価値を認めたからには、リードをゆだねるべきであり、応援団を応援する、つまり応援団の応援精神をリードする、などというのは局面の混乱でしかありません。
観客・応援団・チームの気持ちが特に一体化するのは時間にすれば数パーセントかもしれませんが、美しさはそこにあり、時間の割合だけで軽視はできませんし、応援は創造的な行為であり、「フレーフレー」と声援を送るばかりではありません。応援団に声援を送るのはかえって迷惑かもしれませんが、状況に応じた適切な応援方法で応援団を応援することは、少しも間違っていません。
タンポポの綿毛は明らかに風に乗って飛ぶのに都合がいい構造をしています。 人間が綿毛を口で吹いて飛ばすのは、タンポポの目的を助ける行動であり、もちろんタンポポにとって有益です。 吹いて飛ばされたくなければ、タンポポは茎にとげをつけたり、不快なにおいを放ったりするようにも進化できたでしょうが、 そうはなっていません。むしろ人間を誘うような形態をしているのです。
タンポポの真の目的は、多様な地域での子孫の繁栄であり、そのために種を広範囲に分散させようとしています。 つまりタンポポは種を遠方に飛ばす必要があるのです。 実際、綿毛は強風が吹いて初めて飛行する仕様になっており、そよ風では飛びません。 一方、強い風があってもなくても人間が自分の楽しみのために恣意的に吹いてしまうと、 種は一般に長距離飛行できなせん。 仮に人間が全部吹くと、種はほとんどすべて近距離に落ちてしまい、タンポポの本来の戦略は失敗します。 人間の介入がわずかである場合には目立たないものですが、タンポポにとって有害な行為であることは明らかでしょう。
その意見は自然の姿を正しく把握したものではありません。 タンポポは「仮に人間が全部吹くと」などという非現実な机上の空論ではなく、 現実の自然の姿に最適化して進化しています。 「仮に」というのなら「風が吹かない異常気象」が起きないとは限らず、その状況下では逆に人間に吹かれることの重要性が過大に評価されてしまうでしょう。 実際には人間が世界中のタンポポを全部吹くことは不可能ですし、 動植物が生存している以上、空気の流れがゼロということもあり得ません。 人間は自然に「介入」するものでも、対立するものでもなく、人間自身、大きな生態系の一部です。 例えばタンポポは、人間を含む動物たちが生産する二酸化炭素を利用して生命活動を維持しています。 植物の中には動物の接近を妨害するような形態に進化したものも多々ある一方、 動物に食べられたり、毛皮に付着したりして、種を分散させるものもあり、 タンポポはどちらかといえば後者でしょう。人間がちぎって吹くと「介入」である、などというのは、 人間の思い上がりにすぎません。 タンポポは風や動物の移動などあらゆる利用可能な経路と方法を使って種を広げようとしており、 人間が吹くことはタンポポから見ると動物活動の「利用」の一形態にすぎません。 人間は利用されているのであり、その行動はタンポポから見ると利益になっています。 その代償としてタンポポは魅力的な姿になることに多大な労力を費やし、一般の人間に「存在していてもいい、むしろ快い」と思わせています。
ちょっと待ってください。 「人間も生態系の一部だから」というのは聞こえのいい言葉ですが、非常に問題です。 生態系の一部だからどれだけ二酸化炭素を排出しても、オゾン層を破壊しても、何をしても良い、というのでしょうか。 人間の力は自然の中では確かに微々たるものですが、生態系全体を破滅に導く危うさも秘めています。 人間は自分の活動を完全に客観的には評価できませんが、最善の評価をして最善の選択をしようと努力しています。 努力しなければなりません。 したがって、タンポポの綿毛を吹くことも、本当に生態系の利益になっているのか真剣に考える姿勢が必要です。 子供っぽい純真で一見無害な行動であるからといって、ノーチェックで是認してはいけませんし、 ノーチェックでいいならこの議論の意味もないでしょう。 風は既に理想的なゆらぎを持っており、風だけでタンポポの種は十分最適に分散される、というのは、 厳密には証明はできないものの、妥当な見解でしょう。 実際、人間がほとんどいない場所でも、風だけでタンポポは何も問題なく種を飛ばしており、「人間に依存している」だの「相互依存関係がある」だの「人間のためにきれいに咲いている」などは、それこそ思い上がりです。 風だけで既に最適である以上、人間が介入することは何も利益を追加せず、 一般には最適な分散を乱しているだけです。 わたしたちはタンポポの綿毛を吹くことに断固反対します。
化学物質によるオゾン層の破壊などと、 人間が自分の手と口で物理的にタンポポの種を飛ばすこととはかけ離れた行為であり、 同列には論じれません。そのような極論をするなら、あらゆる生物の活動は利己的で排他的です。 人間が行き過ぎた環境破壊を反省し、この問題に関して実現可能な最善の努力を続けていかねばならないことは言うまでもありませんが、人間の存在そのものが全否定されるわけでもないのです。 人間と生態系の理念的議論を援用せず、 タンポポの綿毛を吹くことという具体的テーマに限って議論してください。 人間が綿毛を吹く確率が高い地域のタンポポとは、すなわち住宅地など人口密度の比較的高い地域のタンポポです。 そのような地域のタンポポにとって、人間との共存は最初から予定されたことです。 例えば、アスファルトの隙間のような、ほんのわずかのチャンスをとらえてすらタンポポは生育し、 その行為は道路のひびを拡大させているかもしれません。 好むと好まざるとに関わらず、人間とタンポポは同じ土地で双方向に益となったり害となったりする微妙な相互関係にあります。 進化論の考え方からして「容易に人間に種を吹かれる形態をしていながら、人間に種を吹かれたという理由で有意な被害をこうむり生存を脅かされるくらいなら、タンポポは適者生存になじまない」と結論しなければなりません。 実際にはその正反対に、タンポポは人間の活動を利用して海を越えて地球の裏側にまで広がっているのであり、結果から見てタンポポの方が一枚上手です。 タンポポは綿毛を吹かれても全く意に介さないばかりか、むしろそれをメリットに転じられるつわものだけが生き残ってきたのであり、綿毛を吹かれて困るのなら現に吹かれ続けている以上、既に滅んでいます。これらの状況証拠から見て、タンポポの綿毛を吹くことは少なくとも害にならず、恐らくタンポポにとってメリットになっています。 人間の子供が本能的気まぐれでタンポポの綿毛を吹いたところでタンポポは少しも困らず、完全に想定内の事象です。 「理論上は微妙に迷惑かもしれない」と想定することは可能かもしれませんが、それはより大きな自然の真実に触れないただの理論です。現実にはタンポポの綿毛を吹くことは何も問題ありません。空虚な論理でなく、生態系の一部としての本能的直感を信じるべきです。
想定内かもしれませんし、許容範囲内かもしれませんが、 それではタンポポの綿毛を吹いて飛ばすのが「良いことだ」という結論にはつながりません。せいぜい「吹く罪は小さいので許される」と言っているにすぎません。 このディベートのテーマは許されるかどうかでなく是か非かです。 本能的直感などというなら言葉で議論を交わす意味がありません。 自分も子供のときやったから、とか、直観的にそのくらいは構わないだろう、という気持ちは分かりますが、 そうしたしがらみを離れ、客観的に是非を論じる必要があります。 タンポポの綿毛は風だけで十分であり、子供の息などは風の代用として劣っています。 人間の介入がなく風に乗れば非常に遠くまで散らばって飛べるものを、人間が勝手なタイミングで吹いたばかりに、一本のタンポポの種がほとんど全部近距離の狭い範囲に落ちてしまうのですよ。 どう考えてもタンポポにとって迷惑であり、 是か非か決めるとするなら非です。 賛成派の言うように影響の度合いは許容できるのですが、どちらかといえばネガティブであることに変わりありません。
子供が吹くタンポポは公園などのものが多く、近距離こそが発芽に適した場所です。 風で遠くに飛び公園から出ると地面はコンクリートやアスファルトしかないかもしれません。 空虚な理論でなく「人間に吹かれる場所のタンポポは人間に吹かれることを織り込み逆用さえしている」という自然のしたたかさ・奥深さを認めるべきです。