人間が写真に写った(左) ―― ふたりの妖精がなにげに森で遊んでいたら、出会ったという。ホンモノの人間写真なのか、トリックなのか? この写真をみたドイルは写真はホンモノだ、人間は実在するのだ!と信じ「人間の訪れ」を著(あらわ)した。
天然の人間さん(右) ―― 西暦2000年ごろ、人間たちが地上を支配していた時代に刻まれた2D像(考古学者が「ポトグラプ」と呼ぶ古代のメディアで壁画の一種)。手をさしだすと、たくみなしぐさで握手。人間の脳にも、二階微分方程式を数値的に計算して手の運動(加速度)を自律的にコントロールできる程度の能力があったと言われる。
イーリアスに限らず、古代ギリシャのうたについては、専門家でも(というより専門家だからこそ?)うたとして認識してないようです。日本だけの話じゃなく、西欧でも。あくまで自分が経験してきた範囲からの判断ですが、大学あたりでギリシャ語やギリシャ古典学を教えてるかたはもとより、第一人者、権威と言われてるかたですら、「ホメーロス問題」には詳しくても、肝心のイーリアスの歌い方を知らないことが多いみたいです。
簡単なことなので、簡単に説明してみます。一般読者だけでなく、ギリシャ語を専門とするみなさまにも、ぜひ以下のことを知っていただきたいです。つか、環境さえあれば、イーリアスを実際に歌ったのを録音してオーディオクリップをアップロードするのですが……。聞いてもらえば、ただちに「あーー!そーいうことなのかぁ!すごい!!」と衝撃とともに、体感できると思います。
以下、予備知識として、読者がドレミファソラシドを知ってると仮定します(中学で習うので知ってると思います)。ただし、ここではレ、ミ、ファの3つの音だけ、例えば
レーミーファーミー ファーミレー レレレ ファーミーレファミレ ファーミレー
で、メロディーが浮かべば充分 — そういうことが不得意なかたでも、読めば、だいたいの線は分かると思います。
古代ギリシャ語は一般に、英語みたいなストレス・アクセントじゃなくて、ピッチ・アクセントです。現代日本語の「雨」と「飴(お菓子のアメ)」は(少なくとも東京方言では)母音子音の響きが同じでもピッチ・アクセントが違いますが、ホメーロスのギリシャ語もそうです。日本語のピッチ・アクセントは高い音と低い音の2通りですが、ギリシャ語の場合、高いと中くらいと低いの3状態があって、また、必ずしも階段状にピッチが変わるのでなく、ポルタメントする場合もあります。中国語を初めとする、いわゆる「声調」と少し似てます。
そんなわけで、古代ギリシャ語ってのは、それ自体、ちょっと歌う感じがあります。(以下いちいち「古代ギリシャ語」と書くのは面倒なので単に「ギリシャ語」と書きますが、現代ギリシャ語のことでは、ないです。)
さらに、ギリシャ語の音節には、長い音節と短い音節があって、長いほうは短いほうの二倍の音価。早い話、ギリシャ語の単語は、リズム的には、四分音符と八分音符が並んでる感じです。ギリシャ語以外でも、こういう感じの言語は多く、日本語もそうです。ので、日本語で説明すると、下の例の「タン」が四分音符で「タ」は八分音符。
だから、日本語にせよ、ギリシャ語にせよ、ある文章というのは、リズムを持ってます。
「フミーニャと」の「と」はホントは短いのですが(八分音符)、そこで読点(とうてん「、」八分休符にあたる)が入るので、合計で「タン」(四分音符)。それと「同級生です」の「です」は表記上は「タタ」ですが、現代の東京語では des という閉じた一音節なので、「タン」という一音。以下のギリシャ語の説明でも同様の現象がありますが、あまり細かく書くと見通しが悪くなるので、いちいち断らないことにします。
さて、上では、わざとリズミカルな文例をあげましたが、ふつう話す日本語だと、通常、こうした「四分音符と八分音符」は、偶然的というか、あまり意味のない順序で出現します。この点は説明するまでもないでしょう。ギリシャ語もそうです。
が……イーリアスでは、この点が、完璧なまでにコントロールしつくされています。
具体的に説明しましょう。単語のレベルでは、何も起きていないように見えます。
じつは、上記はイーリアスの一行目で「ペレウス王の子、アキレス王子の怒りを歌え。詩の女神ミューズよ」という召喚呪文(インボケーション)の冒頭です。我々詩人は、聴衆に向かって「さあ、聴衆のみなさん、アキレス王子の怒りの歌をお聴き下さい」とは言わず、聴衆のことはとりあえず無視して、ミューズにむかって「(わたしのくちを使って)アキレスの歌を歌いたまえ」と呼びかけます。この視点の取り方は極めて重要なので、魔法使い志望のみなさんは、よく体感してください。一般の読者は、ギリシャ叙事詩の冒頭の定型句、というふうに、頭の知識でかまいません。
で、上の単語のならびをつなげて読むと、あらふしぎ、2拍子×6小節のメロディーになります。
メーニナ|エイデテ|アーペー|レーイア|ドーアキ|レーオス|
タンタタ|タンタタ|タンタン|タンタタ|タンタタ|タンタン|
このように、ホメーロスの各行は、必ず「タンタタ」または「タンタン」が6回、繰り返されるリズムになってます(この点は韻律学の初歩で、一般の学者さんが書いた解説の本にもちゃんと書いてあります)。なお、メーニン・アエイデは、続けると「メーニナエイデ」となります(英語のアン・アップル→アナップルと同じ原理)。 — こういうふうになるように、単語をうまく配列するだけでも、けっこうワザなのですが、話は、ここからです。すでに説明したことを組み合わせると、この行は、次のように歌われることが分かるはずです。
ファミレファ|レーレレ|ファー’レー|レーレファ|レーレレ|ファミレー
たまに何かの機会にイーリアスを暗誦してみせると、よく「そのメロディーは、どうして分かるのですか」「メロディーは自分で考えたのですか」みたいな質問をされるのですが、そうじゃなく、メロディーが単語そのものの響きのなかに内在している(旋律と単語が一体化している)わけです。
で、ここまでは、わりと頭脳プレイ的な技に思えるかもしれませんが、イーリアスのすごさは……。それを説明するのには、まず、「タンタタ」または「タンタン」という音節の単語が並んでるわけじゃないってことを認識してください。冒頭のメーニナ・エイデにしても、「タンタ」と「タタンタ」が並んで、それが並ぶことで「タンタタ|タンタ……」となってるわけです。音楽をご存知のかたなら、要するに、(短い)フレージングの切れ目と小節の切れ目は別、と言えば分かるでしょう。当然、もっと大きなフレージングもそうです。上で「’」を入れておいたところが意味上、スラーの切れ目になります。そして、一行だけしか見てないので分かれというほうが無理ですが、こうした一行をじつは複合6拍子の1小節として、さらに大きなうねりの構造が入ってます。メロディーだけ見ると —
ファミレファ|レーレレ|ファー’レー|レーレファ|レーレレ|ファミレー
レーレファ|レー’ミー|レーファレ|レーファレ|ファミレファ|レーレー
2行め頭の「レーレファレー」は「ウーロメネン」(破滅的な)という単語で、こんどは意味をみると —
怒りを歌えミューズよ。ペレウス王の子アキレスの怒り —
破滅的な — (その怒りを)
— となって、前の行にかかる形容詞が次の行の頭でぶっちぎれて、叩きつけるように「破滅的な!」ここはリズム的には小節の頭の最強拍。メロディーもフォルテッシモで「レーレファ・レー!」と激烈に上下。その強烈な響きそのものが「破滅的な」という形容詞と完全に共鳴する。体感は無理としても、かすかにでもこの説明が理解していただけるでしょうか……。復讐すれば自分も命がないとよく知りつつも、親友のかたきをうつためにヘクトルを殺さずにはいられないアキレスの激しい怒り……のことです。文学的にいえば。その悲劇的な運命が、このへんの嵐のような激しいメロディーからして暗示されてるというか。
1行め冒頭を考えても、強拍にいちばん高い音が来て、そこからなだれのようにポルタメントで「ファミレファ レーレレ ファー」……怒りを歌え女神よ!という歌詞にメロディーをつけるとしたら、これしかない、というようなそのメロディーが、ギリシャ語の単語そのものの響きとして刻印されてる。ただ単語を並べただけ、単語そのものにあるピッチアクセントを利用しただけなのに — ホメーロスという魔法使いは、意味と響きを同時に紡ぎ出す。しかもこの同時進行するふたつのレイヤが完全に調和して、奇跡としか思えない背筋がぞくっとするような強烈な効果を生み出す。プラトンか誰かが自分は詩なんてあまり好きじゃないがホメーロスなら一晩中でも聞いていたいとかどこかで言っていたけど、それは、こういうことなんです。そして、なによりくやしいのは、現在、ホメーロス研究の専門家とか言われる学者さんたちのほとんどが、この魔法をまったく理解してないこと。西欧のピッチアクセントと混同するわ、母音の発音は英語読みにするわ、ほんとデタラメ。日本のかたでも、高名な学者(ギリシャ古代史の翻訳なんかもしてるかた)がオデュッセイアを読み上げるのをラジオで聞いたことがあるけど、新聞の記事でも読むみたいに、だらだら、ぼそぼそ。もしその場にいあわせたら、「これは、こーやって歌うものなんだ」と、その芯の強い激しく上下する歌を歌ってみせずには、おれなかったかもしれない……。
で、これだけのわずかな例から想像してもらうのは困難とは思いますが、なにも激しいメロディーだけじゃなくて、からかうような場面では、からかうようなコミカルな調子、重々しい場面(神官が神に祈るとか)では荘重なメロディーだし、悲しい場面では悲しい調子、楽しい場面では楽しい調子、と、なんつーか、オペラみたいなのですが、オペラと違って、歌そのものにメロディーが内在してるところが凄い。
レミファの3ピッチと、タンタタorタンタンのリズムだけじゃ、単調な繰り返ししかできないと思われるかもしれませんが、2拍子をブロックとする複合6拍子と、さまざまなレベルでのフレージングの切れ目の取り方があって、しかも単語の意味の持つ陰影ともまざりあうので、メロディーの可能性は無限とも思えます。
以上の説明から明らかなように、ホメーロスは、そのものを歌って初めて分かるもので、翻訳は、まず不可能でしょう(むかし挑戦してみたこともありますが、不可能だと感じました。だからまず不可能でしょう。もちろん意味レイヤだけ翻訳することは容易ですが……)。文学的なおもしろさや、「白きかいなのヘラ」「薔薇色の指さす夜明け」「銀の弓もつ太陽」みたいな詩的表現の美しさは翻訳でも味わえるでしょうけど、それはホメーロスの本質というより、一面にすぎません。物語の面と音楽の面があって、この両面が不可分に結びついてるのがホメーロスの本質だからです。 — だから、この記事を読んでイーリアスに興味を持たれかかたは、決して日本語版や英語版を探さないでください。読んでも魅力の十分の一も伝わってこないで、かえってホメーロスなんてぜんぜんおもしろくないじゃん、という誤解につながるだけでしょうから。また、魔法に興味を持たれたかたも、ホメーロスを教材にギリシャ語入門(そういう教科書もある)というのは、おすすめできません。もったいなさすぎなので。ふつうのアッティカ標準語をまず学んで、動詞や名詞の屈折システムを一通り身につけてからイオニア語に進むようにおすすめします。アッティカ語が分かれば、イオニア語は、すぐ覚えられるし、基本的にギリシャ語の辞書はアッティカ語の語形で引くようになってるので、イオニア語から入るのは、実用上も、ふべんでしょう。ひるがえって、アッティカ語を覚えておけばプラトンやなんかの有名な文献はもとより、時代を下って新約聖書のコイネーもラクに読めるというゴリヤクもあります(ホメーロスから入ると、コイネーは崩れすぎてて理解困難でしょう — なにせ千年も時代が違うんだから)。
当たり前かもしれませんが、ギリシャ語の教科書ではギリシャ語の文献を読むことを目標にしていて、歌うことを考慮してません。つまりアクセントなんてどうでもいいという感じだったりします。上で例示したように、無アクセントを基準とすると、鋭アクセント(アクサンテギュ)は2段階高く、重アクセント(アクサングラーブ)は1段階高く、曲アクセント(アクサンシルコンフレックス)は鋭アクセント→重アクセントのポルタメントにとることを、おすすめします。
ここで終わりにすると、ホメーロスだけ別格扱いしてるみたいな印象になってしまうので、ほかの詩についても簡単に書きます。まずギリシャでいうと、叙情詩もすてき。といっても、自分が歌えるのはサッポーだけなんですが、サッポーのスタンツァといわれる3拍子が3回かさなる複合9拍子みたいなリズムは天上的に軽妙で夢のように美しく、ギリシャ語なんてぜんぜん知らないかたですら、サッポーを歌ってみせると「……なんて美しい響きなんだ」「もういちど歌って」と反応しました。意味が分かって歌ってるほうは、ふるえるほどです。
ギリシャ語の3ピッチについて、ホメーロスでは仮に短調のレミファで写しましたが、サッポーは朝の光のように長調のレミファ#のほうがあってます。サッポーの叙情詩は、実際には、それこそハープか何かで伴奏がついてメロディーがあったと思います。なぜって、リフレインになっていて歌の「一番、二番」みたいな形式だから。ギリシャ語の単語のアクセントと矛盾しない範囲で、てきとーにメロディーを即興してみるのもおもしろいでしょう。どうやって即興するのかですって? 歌の始めで「歌ってくださいミューズよ」と召喚するのは、そういうことです(微笑) ミューズのかんなぎは、自分のなかを素通りしてメロディーが流れてゆく透明な水門。それこそがミューズの技(テクニック)、短くいうとミュージック。
次にフィンランドに飛んでカレワラ。これは5拍子という変拍子で(あのへんは5拍子や7拍子が多い。バルトークを連想してください)、これがまた、なんというか「素朴で野太い田舎の歌と、洗練されつくしたエルフの歌が合体したみたいな」極めてふしぎなテイストを持っています。拍の裏のいちばん弱いところ(例えば小節の最後の八分音符)から長い単語が始まるのは、ちょっとジャージー(ジャズのスウィング)。もともと強い拍を二重三重に強める田舎っぽい熊おどりみたいな部分につづいて、いきない弱拍の裏から軽妙なスラーが伸びる交錯が不可思議な世界をつむぎだす。シベリウスの交響曲で、よく拍の裏の八分音符から長いタイが出てますが、あれはカレワラのスウィングじゃないかと想像してます。
また、ホビットなかたにたまらないのは、トールキンの妖精詩とカレワラの関係でしょう。カレワラについては機会があったら、あらためて詳しく書きます。
ちなみに日本の和歌なんかは決して5拍子や7拍子じゃないです。現代人が朗読するときは、5音の末尾に休符3、7音の末尾に休符1が入って八分音符を単位として4分の4拍子になってるし、オリジナルの古代の和歌は何拍子でもないセンツァ・ミズーラ(拍子なし)だったと思われます。
あと「母音調和」という現象が、フィンランドの詩の明るさと陰影のふしぎな交錯を作っていて、夏の白夜と冬の長い夜のコントラストを連想したりします。母音調和は、最近まで日本語にもありました。最近といっても二千年くらい前ですがホメーロスとの関連でいうと新約聖書は現代の崩れた口語、万葉集なんかは、さらにそのずっとあと、というパースペクティブになります。
このほかにも世界には多種多様な歌の世界があるでしょう。だれでも知ってる範囲に限っても、中国語の歌は(メロディーでなく訓読としてですが)日本ではおなじみだし、サンスクリット語の詩は意外とモダンで洒脱なリズムだし、アラビア語の脚韻の力強さは有名だし、ヘブライ語の詩は雅楽の楽譜みたいに歌い方の記号がびっしり。これらは、メジャーな言語ですが、ほかにも各地にいろいろなミューズの技(ミュージック)があったはずです。
どんなうたであれ、ひびきと意味のからみあいに魔法があります。例えば、「ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しずこころなく はなのちるらん」では、繰り返される「の」や「に」の音が、のんびりのどかで、ぽかぽか気持ちよくちょっと眠くなってくるような春の日の雰囲気をかもしだし、そのなかで、「は」とか「ひ」の音が舞って、花びらの舞うはらはらひらひらした無常感と響きあってる感じがします。「しずこころなく」のkの三発重ね打ちで緊迫して、「はなのちるらん」の ti の頂点で、花が散るという意味と、音の破裂が重なってます。こういうふうに分析できるのは悪くないですが、本能的にというか直感的にうまく音をつむげることを目指してください。言うまでもなく、うたは、暗誦するべきです。お読みのこの記事も、イーリアスの本や参考文献等は1ページも確認せずに暗誦してるメロディーをもとにしています(逆にいうと、自分はイーリアスを歌えますが、いま歌ったのを文字で書いてみろと言われると、かなりまごつきます。ハングルにいたっては、ちょっとはしゃべれるのに一文字も読み書きできない)。
考古学などでは、発音はてきとーでも古文書に書いてある内容が分かればいいのですが(そっちのほうが重要)、歌う場合は、ある程度オリジナルに近い発音で歌ったほうが詩の本質がよく分かるのでは、ないでしょうか。場合にもよりますが、ピッチアクセントを無視してホメーロスを歌うのは、問題外だと思います。
最後にもう一度イーリアスに戻って、その魅惑を考えると — 。一方では、恐ろしいまでの高速性。例えば「いずれのおおんときにや……」とか「いまはむかし……」などと、牧歌的にだらだらせず(それはそれでまた良いのですが)、イーリアスの場合、もう冒頭の第一語からして、いきなり「いかりを歌え」 — これはアキレスのいかりの物語なのである、という核心を最短距離でずばりとついてくる。いつの話で場所はどこかなど追い追い分かることは放っておいて、いきなり物語の舞台に読者を放り込む。一気呵成(いっきかせい)に、イメージをまくしたてる。
他方において、話がそれてそれてそれまくるふしぎなまぼろし。例えば若い王女はただひとり不安でいっぱいだった、という場面があるとして、「道に迷った子どものように」とかの比喩表現は現代でもよく使うでしょう、が、ホメーロスの場合、そのたとえのほうの道に迷った子の「物語」が実際に何行もかけて目の前につむがれてゆく —
王女の話の途中で、何の前触れもなく、いきなり場面が変わって迷子の話が始まる。「日が傾き始め、森は飴色の闇に包まれる。あやしい鳥が不吉な調子で樹上で鳴く、薄気味悪い夕暮れの森のなかで、ただひとり迷子になった若い少年が不安のあまりパニックを起こしそうになっている、と、そのときいきなり背後でがさごそと不穏な音 — オオカミかクマか何か危険な獣が襲いかかってくるのでは、と、血の気も引いてぎょっとふりむく、瞳孔の開いた蒼ざめた顔、 — ちょうどそのように、ぎょっとして、王女は振り向くと、そこに立っていたのは……」のように(これは実例じゃなくて雰囲気だけの仮の説明ですが)、仮の比喩に使うほうの世界もなんかけっこう本格的につむがれて、そっちのほうの、横道のたとえ話のなりゆきがけっこうまじで気になりだしたあたりで(森で迷った子がふりむいたら何がいたのか?)、なんの未練もなく、そっちの幻はパッとうち捨て「ちょうどそのように王女は」と hos (そのように)という短い接続詞だけで一瞬にしてチャンネルが変わって元の物語の世界に戻ってくる。あまりうまく説明できないで恐縮なのですが、ちょうど体操選手が演技の途中でジャンプして空中で宙返り、おお、すごいと見とれるまもないほどに、着地するともう次の演技に移っている、ちょうどそのように、次から次へとイメージからイメージへジャンプし、あまりに軽妙につむがれる幻想の連続で、本当に魔法にかけられてしまう感じ。
アラビア語、韓国語でIEに連戦連敗の Mozilla、第3ラウンドは古典ギリシャ語で勝負!
2001.07.06 太陽系モバイル:測地系の定義の仕方にもよるけど、ソファーの後ろの数センチ単位のグローバルな経緯度ってのは、ちょっと非現実かも。その精度になると地球の極移動の影響が無視できなくなる。ので、「マイルーム内ローカル3次元座標」とか「わたし中心絶対3次元極座標」のほうが、plausible 。で、「太陽系GPS」は、どーいう「絶対」座標系を使えばいいか。これが難しい。やっぱ未来でも春分点を基準とする地球慣性座標系で通すのか。太陽系ローカルくらいなら、なんとか……。でも、「ナノコンピュータ」の相互の位置決めを太陽系単位でやるとなると、今度は相対論的効果が無視できなくなる。ナノの精度で位置決めできるような座標系は太陽系レベルでは、存在しないかも。届いた電波が来た方向をふりかえっても、そこには、ただ風が吹いているだけ。相手の位置は重力レンズでゆがめられ、光行差と光達時間差でスクランブルされる。そして相手にもあなたは見えない。ゴーギャンいわく「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
2001.07.05 そこで,家中にブロードキャストメッセージを送信すると案の定,#114327Lの靴下が「ソファーの後ろの緯度○○および経度○○の位置にあります」と応答してくるのです。これで靴下を紛失する問題が解消されるわけで
from 惑星間インターネットを語る父は,最近「ネット家電に驚いている」 : 妖精現実では前から「インタープラネット」と呼んでるやつですが、この用語、もう登録商標出願されてるんでしょうか(笑) 惑星間は記事にあるような光達時間差の問題もさることながら、光行差が影響するでしょう……計算上、現在、相手の惑星がある位置に向けて電波を送っても、その電波が「そこ」に届くときは、すでに相手の惑星は「そこ」にいない(軌道上を公転してるから)。この補正計算は、見かけほど簡単じゃないです。発信者のいる天体もまったく同様に空間を移動してるからです。光達時間差について言うと、例えば火星上のロボットを地球から「リアルタイム」で動かせると思ったら大間違い。ロボットと視覚を共有しているあなたが「あ、崖がある。こっちに行くとクレーターに落ちるから停止しなくちゃ」と思って停止信号を送っても、停止信号を送るより前に、とっくにクレーターに落ちてます。あなたに見えるのは「過去」だけで、だれとも「現在」は共有できない ―― ちょっとポエジー。
2001.07.04 欧州議会特別委がエシュロン認定 最終報告書採択