8 : 27 猫のしっぽを思い切り引っ張ることは十戒のどれに違反するか?

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猫のしっぽを思い切り引っ張ることは十戒のどれに違反するか?

2014年11月23日
記事ID e41123

南泉は言った。「この猫の命が惜しければ、禅を一言で語れ。さもないと猫を斬り殺す」

禅僧は即座に南泉を射殺した。「テロリストとの交渉には応じない」

趙州じょうしゅうは興味なさそうに立ち去った。「そんなことよりプリキュア見なきゃ」

猫のしっぽを引っ張ることは罪か

ここで重要なのは、もちろん、状況によっては猫のしっぽを引っ張っていい、ということだ。 居眠り中の猫の上に重い物が落ちてきた。 あと1秒で車にひかれる。 切迫した非常事態において、猫を助けたければ、とっさの判断でしっぽでも何でも引っ張ってそこから引きずり出す必要がある。 当たり前だ。

ユダヤ教では、この問題に明確な指針を与える教義がある(ピクアハ・ネフェシュ*1)。 原則として、人命を助けるためには、ユダヤ法を守らなくてもいい、というのだ。 というよりむしろ、人命を救うためにユダヤ法を破ることが必要なときは破らなければならない、というのがユダヤ法なのだ。 こういう「自己否定的」なメタ規則は、いい。 「動物の命はまた別だ」という主張は当然あるだろうが、準用できると言っているラビもいる。 イエスも「例え安息日でも、穴に落ちた羊を助け出すのは当然だ」と説いた。

しかし、この種の規則を教義として明文化して、いちいち条文を確かめて判断するのは非効率だ。 「猫のしっぽを引っ張ってはいけない。ただし次の条件を満たす場合は…」うんぬん。 教義が何ページあっても足りない。 大道廃れて仁義あり。 「手続き的な集団宗教」の欠点だ。 宗教が何かの支えになるのならそれは結構なことだし、仲良しクラブが楽しいことはよく分かるが、「良いと思うこと」をするという目的においては、宗教は必要ない。 宗教的戒律にとらわれることは、むしろとっさの判断の妨げになる。 「生き物に苦痛を与えることは絶対に許されない」という戒律をたたき込まれ、それで一瞬ためらう修行者は、猫を助けられないかもしれない。 同様に、教条主義は「愛する人と結婚する自由」を奪い、「良い人生の終わりを選択すること」を妨害する。

「殺人をやめろ! 人を殺すな!」そう叫びながら、産婦人科医をめった突きにする「生命尊重派」。 「テロは絶対に許さない! テロとは断固戦うぞ!」と叫びながら無差別爆撃を行う軍隊。 いかにもナンセンスだが、それがその人の信仰なら仕方ない。 同様のナンセンスを微妙に薄めたような現象は、意外とあちこちにありそうだ。 「何々=良い」という教典。 「何々=悪い」という教典。 「教典に従っているから、自分には責任はない」と心を曇らせる信者たち。 規則の古いキャッシュを読み続ける…。

「猫を助けなければいけない」という法則があるわけでもない。 「長く生きた方がいい」というのは、飼い主の勝手な考えだ。 猫は過去や未来のことなど考えないし、「しっぽを引っ張られた」ことと「自分が生きている」ことの間に因果関係があるとも考えない。 ただ、「今」、びっくりして不機嫌になる。 飼い主も飼い主だが、猫も猫だ。

*1 פִּקּוּחַ נֶפֶשׁ (piqqûaḥ nefeš) または פיקוח נפש — しばしば pikuach nefesh と書かれる。 覚えても仕方ないかもしれないが、pikuach はピカチュー(Pikachu)の u が動いたと考えるとすぐ覚えられる。

巣立ちの日

「もし私が猫のしっぽをとても強く引っ張ったら、私はどの戒律を破ったことになりますか?」 禅の公案のようなこの質問は、 St Faith's Church(英国ハンプシャーの小さな教会)の Revd. Brian Williams による 2011年9月11日の説教の中に登場する。 説教自体は平凡で真面目な内容だが、この問いは面白い。 「神が結び合わせたものを引き離してはならない…?」という子どもの答えが、またかわいい(マタイ19:6参照)。 純真さに打たれる。 と同時に、「直観的に明らかなことをいちいち聖書の言葉にこじつけるのは、その純真さを惑わせる行為ではないか」とも感じる。 厳密に言えば、猫のしっぽが神の御業だという観念は、反進化論へのミスリードでもある…。

「先生は答えを知っているはずだ。問題には正解があるはずだ」という生徒の無邪気な信頼を踏みにじる質問。 それは悪いことだろうか。 実際には、先生はあらゆる答えを知っているわけではないし、全ての問題に答えがあるわけでもない。 答えを出すことに意味があるとも限らない。 この殺伐とした事実に、生徒はいつか気付かなければならない…。 だとしたら、どうしてそれが今であってはいけないのか?

「あなたがすることが正しいかどうかは、戒律の問題ではなく、他人が判断する問題でもなく、あなた自身の(あなたと神の間の)問題です」 生徒がそう見切った日、先生は深く喜びながら、同時に少し寂しい気持ちで、その子の巣立ちを見送るだろう。

「意味がありそうだが実はくだらない質問」の価値は、生徒が「意味がありそうだが実はくだらない」と見抜くかもしれないという点にある。 「明らかに無意味な質問」ではチャレンジにならないし、アホな人がアホな質問をしても始まらない。 尊敬されている人が意味ありげな質問をする。 それがチャレンジだ。 生徒は、自分の中の尊敬と闘わなければならない。 自分自身の直感を常識より優先させなければならない。 小難しい知識を並べて優等生になりたい、という欲求を乗り越えなければならない。 その決断を促すことができる教師は、優秀なのかもしれない。 うまくいったときには、自分が生徒に斬られる。 将棋で言えば、指導のためにわざと悪手を指すようなものだ。 ただしその悪手は、相手が正しい対応に気付いた場合にのみ悪手になって、そうではないと厳しい手だ。

「しっぽを引っ張ることは、どの戒律に反するか?」

沈思黙考。 《それ》に気付いた少年は、顔を上げて、真っすぐに師を見る。

「先生、長い間お世話になりました」

「答えなければ、この猫を斬る!」

「お元気で」

少年は振り返らずに去っていく。

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空は青くて真白くて

2014年11月23日
記事ID e41123a

生きているときに与えないで、いつ与えるのか。

わたしの心は躍り上がる(ワーズワース)

わたしの心は躍り上がる。
 空に虹を見るときは。
幼いときに、そうだった。
おとなになった今もそう。
そして老いても、そうありたい。
 そうでなければ、生きたくない!

おとなは生まれる、子どもから。
綴じてください、昨日と今日を。
最後まで。最初の純真で。

★ My Heart Leaps Up(ワーズワース)。 2014年7月に、『「マイナス×マイナス=プラス」は証明できるか?』の結びに含めようとして訳したもの。 結局、含めなかった。

「最初の純真」は、原文では「生来の信心・敬虔さ」(natural piety)。 「子どもが生まれつき持つ、この世の神秘(例えば虹)に驚嘆する純真さ」のことだろう。 ワーズワースを批判する人は「信心は生まれつきのものではなく、学ぶ必要がある」と主張する。 そうかもしれないが、それは西方の神学が不自然である証拠かもしれない。

空は青くて白くて(フィンランド民謡)

空は青くて白くて、
星でいっぱいだ。
そんなふうに、わたしの若い心は
 いっぱいだ。いろんな想いで。

わたしは誰にも打ち明けない、
この心の悲しみを。
暗い森も、輝く空も
 知らないんだ。わたしの憂いを。

★ Taivas on sininen(フィンランド民謡)。 ワーズワースから「空と心」つながりで。

「そんなふうに」という一言で、満天の星と内なる宇宙を結び付けるところが美しい。

次のバージョンはメロディーに合わせたもの。

空は青くて真白くて(歌用バージョン)

空は青くて真白くて、
あまたの星に満つ。
わが若き胸も
あまたの想いに満つ。

誰にか告げんや、この憂い、
内なる悲しみを。
暗き森に告げず。
輝く空に告げず。

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