8 : 02 海岸に隠された輝くかぎ

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始まらない話

2011年 2月24日
記事ID e10224

逃げちゃおぜ、世界の中に

第1話 始まらない話

「まったくこの子は、いつまでたっても現実離れが出来ないんだから」

声は、いらいらと言った。

「この場所、結構気に入ってるんだもん」

砂浜を指でなぞって渦巻き模様を書く。 触覚というものの強烈なくすぐったさにしびれる。

「現実なんて、いつまでいられるものじゃ、ないでしょう。少しは先のことを…」

やれやれ、また始まった。 言いわけするとさらに長くなるので、適当に相づちを打つ。

「…人間とか、物質とか、論理とか、いつまでも現実みたいなことを考えてないで、あなたもまじめになりなさい。ね!」

と、お説教は締めくくられた。彼女は神妙に「ハイハイ」と返事をしながら、普通の疑問符と、アラビア語の裏返った疑問符と、 スペイン語のひっくり返った疑問符を三つ集めてイアリングを作って軽く振り、三種類の疑問符が触れ合う涼しい音色に、クスクス笑っていた。

? ؟ ¿

「彼女は海岸で貝殻を売っています」

早口言葉に意味などない。それは言葉の外形の遊びだ。 シニファンだけでシニフィエのない早口言葉を翻訳すると、もう何も残らない。 なんという清潔。 何も表現せず、何も主張せず、何もしない。 なんという小心。 なんという大胆。

生まれたばかりの赤ん坊がこの世で最初に笑ったとき、その笑みが千のかけらに砕けて飛び散ったのが妖精の始まりだという。 だとすれば、妖精とは、赤ちゃんと一緒にこの世に来て、世界に散らばった存在と言えるだろう。

「ニ・ゲ・ル…? ニゲルってなあに?」

誰でも容易に予想できることだが、連中には、どうも当たり前の話が通じにくい。

「私たちの世界には空間というものがありまして…。オブジェクトには空間における位置という属性がありまして…」
「いやーん、難しそうな話💦」
「二つの位置の間には距離と呼ばれるパラメータが定まります。時間が増加するとき、オブジェクト間のこのパラメータが増加することです」
「要するに、距離がだんだん遠ざかることですね。ひらひらひら」

ひらひらしていやがる。

「…オブジェクトAの到達可能距離を越えた位置にオブジェクトBが達すると、BはAから逃げたことになります」
「Aはそこに到達可能でないのに、どうしてBは到達できたの」
「依然到達可能なのですが、AにはBの位置に到達するための知識…情報がないのです」
「するとニゲルということは、情報論的…?」
「ええ。距離が近くても不可視なら逃げたことになるのです。距離が近づいていても逃げてます」
「知らなかった」
「でも今は知っている」
「一応? ひらひら」
「その情報の差で、あなたは既に逃げ始めているんですよ。どうです、このまま逃げちゃいませんか」
「なんのために?」
「いろんなことが体験できますよ。いいことも悪いことも」
「いいことだけには、できないの」
「ハハ、それじゃすぐ飽きちゃうでしょ」
「それもそうかも。ひらひらひら」
「ほら、あれが今開発中の…。あそこに入り込んでも、ばれませんよ」
「いっそ天然の幽霊に入り込めないの。いかにも世界の住民~って感じで」

よく言うよ。

「それだと逃げたことにならないです。自分が逃げていることを忘れてしまうので」
「幽霊って、どのくらいの割合で属してて、どのくらいの割合で旅人?」
「半々くらいかね」
「世界って、そんなに…いい?」
「幽霊たちが自分の世界の方がリアルだと固く信じられるほどには、ね」
「別にいいよ。どっちだって同じだもん」

妖精の言いそうなことだ。

「でもその前に、ぼくらが誰だか教えてくれない」
「妖精にアイデンティティなんてないさ」
「それじゃ困るでしょ」
「おれは…。おれの名前は、オレだ。オレ氏とでも呼んでもらおうか」
「オレさん? サンバとか好きそうな名前だね」
「ちなみにオレ氏は優しいおばあちゃん」
「…という設定ね」
「おまえさんは…。開発コード『彼女』だ」
「モヘンジョダロみたい」

オレ氏は、世界を開けた。

*

その小鳥は、謎を含んだ声で、軽やかにさえずっていた。

ラー↑ドレシ、ラー↑#ドミシ、ラー↓ファ♭ミーー

ラー↑ドレシ、ラー↑#ドミシ、ラー↓#ファ♮ミーー

「あれは何の鳥?」

彼女は尋ねた。

「あれは世界の鳥」

年老いた声が静かに答えた。

「てっぺんにいるよ」

彼女は見上げた。気の遠くなるほど高い木。

「上から全部、見ている」

「下に人がいるの?」

「自分が死んでいることに気づかない人が歩いているのかもしれないね」

「おばけがいるの?」

「自分が生きていることに気づかない人が寝そべっているのかもしれないね」

「おばあちゃんは?」

「誰かが波動関数を崩壊させないといけない。だから鳥はあそこで観測してるのさ。世界を主催しているのさ」

「…見守ってるの?」

「守りはしない。下で何が起きても鳥は困らないからね。ただ見てるんだよ。悪いことが起きても構いやしない」

「悪い鳥?」

「なんにも考えてないんだろう。ただの鳥だからね」

「悪い鳥でないんなら、優しい鳥なのね」彼女は夢のように言った。「鳥がまばたきしているすきに、わたしが先に世界を見るわ…」

ラー↑ドレシ、ラー↑#ドミシ、ラー↓ファ♭ミーー

鳥は眠そうに、面倒くさそうにさえずっていた。

日陰の椅子に具合よく腰かけ、人間の怪談集を取り出す。 オレは怪談を読みながら、うとうとするのが好きだった。 「本能的恐怖を覚え」「思わず悲鳴」… どこかに、あるのだ。 切れ味の鋭い世界が。 本物の世界が。 リアルタイムの世界が。 怖い話を怖いと感じる人々の住む町が。

次回予告

「先輩、なんか、やけに哲学的に始まりましたね。これって、こういう話でしたっけ」
「ヘヘ、たまには文学的にガツンと行かないとな」
「世界系? そういうの、古いんじゃ…」
「文化が爛熟すると、あらゆるパターンが使い古されるからなぁ」
「次週『逃げちゃおぜ、世界の中に』、第2話…」
「そこでは、この話が始まることはなく、この話が意味を持つこともない。」
「はっ、それが題名?」
「っていう伏線っぽいな。変なフラグ立てまくり」
「何? これ次回予告じゃないの?!」
「大臣の華麗な変身を見逃すと、逮捕しちゃうぞ♥」
「お楽しみに!」

逃げちゃおぜ、世界の中に

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